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朗読箇所

四旬節第10主日

旧約 イザヤ書 49:8−13

◆終末の平和
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


新約 ヨハネによる福音書 4:1−15

◆弟子たちに現れる
36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
◆天に上げられる
50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

説教

キリストの遠回り

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    近道という言葉は、とても魅力的に響く言葉です。
    何か新しいことを始めたときには、
    上達への近道があるなら、
    ぜひとも知りたくなります。
    また、出かける用事があるときは、
    できる限り簡単で、
    短い距離の移動で済む道を選ぼうとします。
    グーグル・マップやカーナビのおかげで、
    効率よく、目的地までの最短ルートや
    自分の好みの道を探すことができます。

    イエスさまが生きた時代、
    基本的な移動手段は徒歩だったため、
    大きな危険や悪い噂がなければ、
    人びとはできる限り目的地への近道を選んだと思います。
    けれども、ユダヤ地方を去って、
    ガリラヤへと向かったイエスさまは、
    最短ルートを選びませんでした。
    ヨハネ福音書の物語の流れから推測するならば、
    ガリラヤへ向かって出発する前、
    イエスさまは洗礼者ヨハネが活動していた、
    アイノンという場所にいました。
    そこは、エルサレムから東におよそ30kmほど移動し、
    ヨルダン川を越えた先にある場所です。
    そのアイノンという場所から
    寄り道せずにガリラヤへ行こうとするならば、
    ヨルダン川に沿って、北に向かって歩くだけです。
    およそ140kmの距離があるため、
    ガリラヤにたどり着くためには、
    1週間ほどの旅が必要でした。

    でも、ガリラヤへ向かうイエスさまの旅について、
    「サマリアを通らねばならなかった」(4節)と、
    ヨハネは記しています。
    サマリアという地域は、エルサレムのあるユダヤの北にあり、
    イエスさまが主に活動をしていたガリラヤの南にあった地域でした。
    つまり、ユダヤとガリラヤに挟まれた場所にある地域です。
    イエスさまがいたアイノンからガリラヤへ移動するために、
    サマリアを通る必要はありません。
    サマリアへ行くためには、
    わざわざヨルダン川を渡って西側へ行く必要があります。
    その上、急な坂を上って行かなければなりません。
    何よりも、目的地であるガリラヤへ行くためには、
    サマリヤを通るのは遠回りでした。

    この遠回りは、単なる寄り道ではありませんでした。
    ユダヤ人とサマリア人の間には確執があり、
    お互いに拒絶し合い、忌み嫌い合っていました。
    ユダヤ人も、サマリア人も、同じ神を信じていました。
    けれども、ユダヤ人はエルサレムを聖なる場所と考え、
    サマリア人はゲルジム山という別の山を聖なる場所と考えました。
    そのため、彼らの間に争いが生まれました。
    サマリア人はエルサレム神殿に死者の骨を撒き散らし、
    ユダヤ人はゲルジム山の神殿を破壊するなど、
    その溝は徐々に深まっていきました。

    サマリア人との関係がこのようなものであったため、
    ユダヤ人たちはサマリアを避けて旅をするのが普通でした。
    でも、このときのイエスさまは、
    ユダヤ人たちのそんな文化的常識に
    真っ向から逆らう行動をしました。
    イエスさまはわざわざ遠回りをしてサマリアを訪れました。
    いえ、ヨハネ福音書の記述によれば、
    イエスさまは、サマリアへ行かなければなりませんでした。
    それは、サマリアを通らなければ
    ガリラヤにたどり着けないという意味で、
    サマリアを絶対に訪れなければならなかった
    ということではありません。
    遠回りで、決して効率的でもなく、
    文化的にもサマリア人からは決して歓迎されず、
    またユダヤ人からも喜ばれない。
    そんな道を選んで、
    イエスさまはサマリアの地へ足を運びました。
    それは、神からの促しだったのか。
    それとも、イエスさま自身の心に強く迫る何かがあったのか。
    ヨハネは詳しいことは語っていません。
    けれども、サマリアへ絶対に行かなければならない。
    そんな強い促しを受けて、
    イエスさまは遠回りする道を選びました。

    それは一体、何のための遠回りだったのでしょうか。
    サマリアにたどり着いたイエスさまが、
    昼間にひとりのサマリア人女性と井戸で出会い、
    彼女と会話をした場面を通して、
    わたしたちはその遠回りの理由を知ることができます。
    この女性は、昼間にひとりで井戸にやって来ました。
    このことは、彼女が何らかの問題を
    抱えていることをほのめかしています。
    井戸は、生活に必要不可欠な水を得るために、
    人びとが毎日のように必ず訪れる交流の場でした。
    現代に生きるわたしたちは、
    蛇口をひねれば簡単に水を得ることができます。
    けれども、井戸から水を汲み上げ、
    水瓶に十分に必要な量の水を入れて、
    家までその水瓶を持ち帰ることは、
    なかなかの重労働であったことが簡単に想像できます。
    そのような労働は、わざわざ昼間の暑い時間帯を選んで
    行われるものではありませんでした。
    もっと涼しい時間帯、
    つまり朝や夕方の時間帯に好んで行われます。
    そう考えると、昼間に井戸に現れたこの女性は、
    他の人たちとの交流を避けて、
    朝や夕方ではなく、真昼の時間帯に、
    この場所を訪れたことが想像できるでしょう。

    イエスさまは明らかに、彼女と出会い、
    彼女に語りかけるために、サマリアを訪れました。
    この福音書を読んだユダヤ人の目から見れば、
    彼女はサマリア人であり、
    何らかの問題を抱えている女性であるため、
    わざわざイエスさまが時間を割くべき人物とは
    到底思えなかったでしょう。
    でも、イエスさまは彼女に出会うために、サマリアへ行きます。
    彼女が本当に必要としている、
    生ける水を彼女のもとに届けるために、
    イエスさまは遠回りをして、この女性と出会い、
    そして彼女に語りかけました。

    それは彼女にとって、驚きの出会いでした。
    当時のユダヤ人やサマリア人にとって、
    公共の場で、男性が女性に
    個人的に話しかけることは好まれていませんでした。
    また、何よりも、ユダヤ人であるイエスさまが
    サマリア人である自分に話しかけてくるなんて、
    信じられないことです。
    「水を飲ませてください」という簡単な一言ですが、
    イエスさまが彼女に語りかけたこの言葉は、
    文化や慣習を打ち破り、
    人種も、性別も、社会で置かれている立場も、
    過去の経験も全く関係ない状態で、
    イエスさまが彼女と出会った証しでした。
    イエスさまとのこの出会いを通して、
    彼女は救い主であるイエスさまを受け止め、
    決して渇くことのない、いのちの水を
    神がイエスさまを通して与えてくださることを
    受け止めるようになりました。

    イエスさまを受け入れために、
    彼女は一体何をしたのでしょうか。
    それはただ、イエスさまの言葉に耳を傾け、
    イエスさまと対話を重ねただけです。
    彼女が抱えている問題は解決などしていません。
    彼女がサマリア人であることも、
    女性であることも変わりません。
    ですから、彼女が誰であるのか。
    彼女が何をしているのか。
    彼女が何に所属しているのか。
    彼女が過去に何をしたのかは、問題となりませんでした。
    神によってのみ与えられる生ける水を
    ただただ、彼女が必要としていたから、
    イエスさまはサマリアを訪れました。
    彼女が特別なことをしたからではなく、
    彼女が誰の目から見ても
    とっても正しい人だったから、
    彼女はイエスさまと出会うことができた
    というわけではありません。
    ただ、イエスさまが遠回りをし、
    イエスさまの側から彼女に語りかけ、
    文化や慣習を乗り越えてくださいました。
    イエスさまが彼女と出会ってくださったから、
    この女性はイエスさまから、
    いのちの水を受け取りました。

    現代に生きるわたしたちにとって、
    遠回りを選んで、文化的な壁を乗り越えて
    サマリアの女性と出会ったイエスさまの姿は、
    とても挑戦的な姿に映ります。
    だって、わたしたちの生きる現代の社会において、
    効率を求める方がはるかに楽ですし、
    そちらの方が多くの人が
    望んでいることのように思えるからです。
    でも、それは同時に、効率を求めて、
    心をすり減らし、心が徐々に渇き、枯れていくような、
    そんな感覚を覚える社会かもしれません。
    立ち止まったり、遠回りをしたりすることは、
    とても恐ろしいことです。
    他の人に置いてきぼりにされたり、
    必要な成果を生み出せないかもしれないからです。
    すぐにでも取り掛かりたいことを保留し、
    賞味期限切れになるのも嫌です。
    でも、イエスさまにとって
    サマリアの女性がそうであったように、
    遠回りをしないと出会えない人がいます。
    遠回りをしないと、見えないものがあります。
    遠回りをし、立ち止まらないと、
    愛や憐れみを届けられない人たちがいます。
    だから、イエスさまは立ち止まりました。
    ユダヤ人たちから拒絶されているサマリアに
    救いの知らせを届けるために。
    周囲の人を避け、自分から孤独になろうとしている、
    このサマリアの女性と出会い、
    彼女の渇ききった心にいのちの水をもたらすために。
    そのために、イエスさまは遠回りをして、
    サマリアへ行くことを選びました。

    考えてみると、教会とわたしたちが呼ぶ交わりは、
    ある意味で遠回りを大切にしている集まりです。
    だって、自分たちがするべき様々なことを
    一度脇に置いて、
    わたしたちは神の前に集まるのですから。
    物事を順調に進めるためには、
    止まったり、遠回りをしない方が良いのかもしれません。
    それが当たり前と考えてしまうわたしたちに、
    神は礼拝を通して、わたしたちの人生に
    遠回りの機会を与えてくださっています。
    こうやって毎週立ち止まり、回り道をすることを通して、
    わたしたちは神から生ける水を得る、
    そんな経験を与えられています。
    神によってこそ癒やされる渇きがあると、
    わたしたちは信じているから、
    わたしたちは信仰の旅路において、
    喜んで立ち止まり、遠回りをこれからもし続けます。

    けれども、この遠回りの経験は、
    自分自身のためだけのものではありません。
    というのも、イエスさまは、サマリアの女性に、
    「私が与える水はその人の内で泉となり、
    永遠の命に至る水が湧き出る」と語りかけているからです。
    そう、神から与えられる水は、
    やがて水が湧き出る泉となります。
    それは、単に、わたしたちが
    渇かなくなるためだけのものではありません。
    むしろそれは、誰かの人生の渇きを
    癒やすためのものです。
    わたしたちが神のもとに立ち止まり、
    キリストと共に遠回りをする道を選んで行くとき、
    神はきっと、わたしたちを通して、
    いのちの水をこの世界に広げてくださるでしょう。
    わたしたちの前で誰かが泣く時、
    わたしたちのそばで誰かが叫ぶ時、
    わたしたちの周りで誰かが失望する時、
    どうか立ち止まり、遠回りをすることを恐れませんように。
    キリストと共に遠回りをするならば、
    いのちの水はみなさんを通して、
    この世界を生かすために流れていくのですから。

週報より

  • 2024.04.21 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後、ティータイムの後に、月報『モレノ』の製本を予定しています。
    ご協力よろしくお願いいたします。

    ② 教会月報『モレノ』の編集会を毎月第4日曜日に変更します。
    いつも『モレノ』に原稿や写真や絵を寄稿してくださり、ありがとうございます。
    新しい企画や月報の構成などを考えやすいように、
    製本を終えた次の週に編集会を開催することに変更します。
    原稿の締め切り日は、これまで通り第2日曜日です。
    今月2度目になってしまいますが、次のモレノ編集会は来週の礼拝後です。
    モレノチームの方だけでなく、今回のみ加わってくださる方も歓迎します。

    ③ 教会教育委員会主催のリレー講義の第4回目のお知らせ
    『道・真理・命 〜 恵みの旅としての弟子の歩み』という書籍に基づいて、
    ナザレン教会の牧師たちのリレー講義を行う企画が昨年から始まりました。
    第4回目は、来週の日曜日午後4時からで、基嗣牧師が担当です。
    ZoomのルームIDは 845 4653 5777 で、パスワードはありません。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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