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朗読箇所

四旬節第8主日

旧約 創世記 3:1−9

◆蛇の誘惑
1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」


新約 ルカによる福音書 24:13−35

◆エマオで現れる
13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
14 この一切の出来事について話し合っていた。
15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

説教

目が開かれて、旅立つ

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    イエスさまのふたりの弟子たちは、
    エルサレムに背を向けて、
    エマオという村へ向かって旅立ちました。
    イエスさまが亡くなってから3日目のことです。
    エルサレムの都は、まだ数日、お祭りの期間が続きます。
    けれども、彼らはお祭りが終わる日まで
    エルサレムに留まろうとはしませんでした。
    イエスさまがいない今、
    イエスさまと最後に過ごした、
    エルサレムの都にこれ以上とどまる必要性を
    感じなかったのかもしれません。
    彼らはイエスさまこそが、
    自分たちの未来を切り開いてくれると期待し、
    イエスさまに希望を抱いていました。
    けれども、イエスさまは十字架にかけられて命を落とし、
    彼らは、自分たちの希望である、イエスさまを失いました。
    このふたりの弟子たちは、将来の希望を失い、落ち込み、
    イエスさまと一緒に過ごしたエルサレムの都に背を向けて、
    ゆっくりとエマオへと向かい、旅立ちました。

    エルサレムには、イエスさまの他の弟子たちがいました。
    ですから、彼らのこの旅は、
    一緒にイエスさまとの時を過ごした
    あの仲間たちのもとからも離れていく、
    そのような旅でした。
    そう考えると、彼らの旅は、
    あまり喜ばしいものではありません。
    期待に胸を膨らませた新しい旅立ちというわけでも、
    故郷に帰るような喜ばしい旅でもありません。
    イエスさまが一緒にいない喪失感と、
    将来に対する失望や挫折。
    そして、受け入れがたい現実に、
    彼らの心は困惑していました。
    彼らの旅は、そういった感情を抱えながらの旅でした。
    ただ、イエスさまを失ったことについて、
    彼らには心の整理がどうしても必要でした。
    また、自分たちがこれからどうしたら良いのか、
    考え始めなければなりません。
    ですから、彼らはエマオに向かう旅の中で、
    これまでの出来事を語り合いました。

    彼らが語り合っていると、
    ひとりの人が近づいてきて、
    一緒に歩き始めました。
    エルサレムでのお祭りに参加した帰り道だったのでしょうか。
    それとも、エルサレムでの混雑を避けるために、
    近くの村に滞在しつつ、
    お祭りに参加している人なのでしょうか。
    この人は彼らふたりの旅に加わり、
    彼らの対話に加わりました。
    この人こそ、復活したイエスさまでした。
    けれども、彼らはこの人がイエスさまであるとは気づかず、
    イエスさまと会話を続けます。
    そして、ふたりの弟子たちは、
    自分たちが失望し、困惑することになったその原因である、
    エルサレムで起こった出来事について話し始めました。
    弟子たちの話しを聞いた時、
    不思議なことに、イエスさまは
    自ら名乗り出ることはしませんでした。
    失望し、困惑する彼らと言葉を交わし、
    メシアについて聖書に記されていることを説明しながら、
    目的地を目指して一緒に歩むことを
    イエスさまは選ばれました。
    後に、彼らはこのときの経験について、
    「私たちの心は燃えていた」と振り返っています。
    失望し、困惑する彼らと同じ方向を向いて、
    一緒に歩み、言葉を交わしながら、
    聖書に記されている神の約束を
    彼らと一緒に思い起こし、
    彼らにゆっくりと語りかけながら、
    イエスさまは彼らの落ち込み、沈みきった心に、
    再び火をともそうとされたのです。

    このふたりの弟子たちが、
    一緒に話していたこの人はイエスさまであると気づいたのは、
    目的地のエマオに到着し、家で食事をしている時のことでした。
    彼らはまだ旅を続けようとしていた
    イエスさまを無理に引き止め、家に招きました。
    そして食事の席で、イエスさまはパンを手に取って、
    祝福し、パンを割いて、ふたりに手渡しました。
    それはまるで、何処かで見たことのある光景でした。
    そう、それは、5000人もの人びとを
    少ない食料で養ったときや、
    イエスさまが十字架にかけられる前の夜に、
    イエスさまが過越祭のお祝いの食事の席でした
    あの振る舞いそのものでした。
    パンが割かれ、そのパンが手渡されたとき、
    彼らの目が開かれました。
    自分たちは復活したイエスさまと出会い、
    イエスさまと語り合っていたことに気付かされました。
    落ち込んでいた心が息を吹き返し、
    彼らの心は喜びで溢れます。
    イエスさまだと気づいたときには、
    イエスさまはもう彼らの前からいなくなっていました。
    けれども、イエスさまと出会った彼らは、
    イエスさまの復活を信じ、喜びました。
    もう居ても立ってもいられなくなり、
    イエスさまと出会ったことを仲間たちに伝えるために、
    彼らは来た道を急いで戻り、
    エルサレムへと帰って行きました。
    失望と落胆で始まった彼らの旅は、
    復活したイエスさまとの出会いを通して、
    喜びと希望に溢れるものへと変えられていました。

    食べ物を受け取って、
    ふたりの人の目が開かれるこの出来事は、
    旧約聖書のある物語を思い起こさせます。
    それは、アダムとエバがエデンの園から追放された、
    創世記3章に描かれているあの物語です。
    神が造られた園で生きていたアダムとエバは、
    善悪の知識の木以外からならば、
    園に生える木の実を
    何でも食べることが許されていました。
    けれども、彼らは禁じられた木の実を食べました。
    そう、善悪の知識の実を受け取った彼らは、
    その目が開かれ、彼らは知識を得て、
    自分たちが裸であることに気づきます。
    そして、知識を得た彼らは
    神を必要とせず、神と共にいることを望まずみませんでした。
    そのときから、神から離れ、園から出て行き、
    エデンの園に背を向けた彼らの旅が始まりました。

    この物語は、アダムとエバというふたりの人についての
    歴史的な出来事を描いているというよりは、
    人間の姿を象徴的に映し出すための物語です。
    ヘブライ語でアダムは人類。エバは命。
    そしてエデンは喜びを意味します。
    ですから、この物語は、
    アダム、エバ、エデンという
    ヘブライ語の言葉の響きを通して、
    人類とその命が、神のもとを離れ、
    喜びから遠ざかっていくことを
    とても象徴的に読者に伝えています。
    善悪の知識の実を食べて、知識を得た彼らは、
    神を必要としませんでした。
    彼らは、自分たちの力で生きようとしました。
    それが皮肉にも、喜びを意味するエデンへの道も、
    命の木へと至る道も閉ざしてしまいました。
    食べ物を受け取り、目が開かれた人類が
    エデンの園から出発したその旅は、
    神から離れ、神と共に生きる喜びに
    背を向けることから始まりました。

    エルサレムを離れ、エマオへと向かった
    ふたりの弟子たちには、何が起こったでしょうか。
    エマオにたどり着き、食事の席で
    イエスさまがパンを手渡したとき、
    ふたりの目が開かれました。
    そのとき、彼らはイエスさまのことがわかりました。
    イエスさまが復活したことを確信し、彼らは喜びました。
    この出来事はまるで、エデンの園の物語の逆転のようです。
    いのちを失い、神から離れて歩む道を選び取り、
    喜びに背を向けて歩み始めた、
    あのエデンで起きたような目の開かれ方を
    このふたりの弟子が経験したわけではありません。
    それは、失ったいのちが取り戻され、
    イエスさまが一緒に歩んでくださっていることに気付かされ、
    沈みきった心に喜びが溢れてくるような、目の開かれ方でした。
    またそれは、このふたりにとって、神のもとを離れて、
    自分の知恵と力で歩んで行かなければならない道ではなく、
    神と共に語り合いながら、
    神の家である神殿のある都、エルサレムを目指す道が
    彼らの前に開かれた瞬間でした。
    孤独に、自分の力のみに頼り切って歩むのではなく、
    仲間たちと喜びを分かち合い、語り合う、
    そんな旅が始まりました。

    わたしたちもそのような旅に招かれています。
    もちろん、エルサレムを目指すわけではありません。
    この地上にある都ではなく、
    天にある都をわたしたちは目指して歩んで旅をしています。
    主キリストによって、この旅に招かれているわたしたちの前にも、
    いのちと喜びに溢れる道が開かれています。
    神の子であるイエスさまは、
    わたしたちの旅に合流し、
    わたしたちと共に歩み、
    わたしたちに語りかけてくださっています。
    わたしたちが立ち止まったり、
    神など必要ないと言って、他の道を歩もうとするときは、
    神を避け、神の前から隠れた
    アダムとエバに対して神が語りかけたように、
    神の側から「どこにいるのか?」と
    わたしたちを探し始めることでしょう。
    神ははじめから、わたしたちを探し、
    わたしたちを追いかけ、
    わたしたちと共に言葉を交わしながら、
    一緒に目的地に向かって歩もうとしておられるからです。

    このふたりの弟子たちに対してそうであったように、
    きょうも神は、わたしたちの目を開こうとしておられます。
    それは、神がわたしたちに語りかけ、
    将来、わたしたちが復活のいのちを得、
    天の御国で生きる約束を思い起こさせることを通してです。
    人のいのちを生かすよりも、いのちを踏みにじり、奪うことが
    当たり前に思える世界で、わたしたちは簡単に、
    この希望に対して目を閉じてしまいます。
    上司や社会常識や文化的価値観が
    暴力的に提示するわたしたちのあるべき姿に、肩身を狭くし、
    ありのままの自分を否定されているのに、現実を諦めてしまう。
    神が約束している、この世界を新しくし、いのちを吹き込む、
    神の霊の働きに対して、目を閉じてしまいます。
    暴力と殺戮ばかりが広がり、
    平和も愛も憐れみも失っていくように見える世界で、
    わたしたちはあまりにも簡単に、
    天の御国がこの地上に広がっていく希望を諦め、
    この目を閉ざしてしまいます。
    神は、わたしたちに希望の言葉を語りかけることを通して、
    そんなわたしたちの目を開こうとしています。
    死に勝利された、復活の主であるキリスト見つめなさい、と。
    そして、わたしたちは、割かれたパンを手渡されます。
    キリストによって与えられるいのちは、あなたの手元にある。
    割かれるパンを見つめるたびに、
    パンを手渡されるたびに、
    わたしたちはキリストと共に、
    ここにいる仲間たちと共に、
    いのちと喜びに溢れる、天の御国へと
    向かって歩んでいることに、目を開かれていくのです。

週報より

  • 2024.04.07 週報より抜粋・要約

  • ① きょうはティータイムの後、月例教会役員会を開きます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いします。
    おもな議題は、オンライン献金の検討、教会の看板などについてです。
    役員会で話し合ってほしいことがありましたら、
    牧師または教会役員までお知らせください。
    また、教会役員の就任式は、来週の日曜日の礼拝の中で行う予定です。

    ② ナザレン神学校の入学礼拝は4月8日(月)の予定です。
    午前11時より、ハイブリットで開催される予定です。
    オンライン(ZOOM)で出席をご希望の方は、下記より参加可能です。
    ミーティング ID: 839 6596 2580 パスコード: nazarene24
    今年度はふたりの新入生を迎え、3名の方々が在学することになります。
    神学生の方々の学びのためにおぼえてお祈りください。
    稲葉奈々さんは、小山教会が神学生としての奉仕教会となります。

    ③ 次週礼拝後、月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    モレノチームのみなさま、よろしくお願いします。
    原稿や写真のご寄稿は、来週の日曜日が締切となります。

    ④  イースター献金にご協力ください。
    世界宣教とキリスト教団体への募金、教会の働きに用います。
    受付テーブルに献金袋がありますので、ご利用ください。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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