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朗読箇所

四旬節第3主日

旧約 出エジプト記 20:8–11


8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。


新約 ヨハネによる福音書 9:13–23

◆ファリサイ派の人々、事情を調べる
13 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
14 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。
15 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」
16 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。
17 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

説教

神が望む共同体のあり方とは?

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    3月は物事の節目を経験する人が多い時期です。
    自分や家族、周囲の人たちが、
    卒業や卒園、学校のクラス替え、職場の異動や退職、
    期限付きの役職の終わりなどを経験します。
    そういった節目や物事の終わりは、
    ホッとする一方で、やはり寂しさを感じるものです。
    たとえば、学校のクラスや保育園のクラスなどは、
    クラス替えや卒園などをしてしまえば、
    まったく同じメンバーで集まる機会も
    なかなか持てないからです。
    楽しい思い出が多いほど、
    自分のよく親しんだコミュニティが解散する、
    もしくはそこから去っていかなければならないことは、
    とても寂しさを感じるものです。
    ただ、現代社会においては、
    その気になれば、
    新たに関わることのできるコミュニティは、
    いくらでもあります。
    趣味で集まることも、
    ボランティアや何か特定のものを
    勉強したいという目的をもって集まることも、
    インターネットで集まることだってできます。
    もちろん、新しい人間関係を作っていくことは、
    時間も労力もかかるため、
    かなり疲れるものです。
    ですから、いくらでも新しいコミュニティに
    関わり続けることは当然できません。
    けれども、関わるコミュニティを
    いくらでも新たに選べる世界で
    私たちは暮らしています。


    現代に生きる私たちが持っているこのような感覚を
    イエスさまの時代に生きたユダヤ人たちは、
    果たしてどの程度共有していたのでしょうか。
    コミュニティ・共同体というものを考える上で、
    現代に生きる私たちと
    古代の人びとの間にある大きな違いは、
    選択の自由がどれほどあったかです。
    私たちの前にはいくつかの選択肢があって、
    私たちはその中から選び取って、
    関わるコミュニティを決めます。
    自分にはこのコミュニティは合わないと感じたら、
    好きな場所を選ぶこともできます。
    けれども、イエスさまが生きた時代の人たちにとって、
    彼らが関わるコミュニティは、
    選択の結果ではありません。
    生まれた場所によって、
    自動的に関わるコミュニティが決まりました。
    政治的・経済的な事情で、移動を強いられ、
    関わるコミュニティが変わることも
    もちろんあったでしょうが、
    それらもまた、彼らの選択の結果ではありませんでした。
    だからこそ、自由に変更できない、
    自分たちの所属するコミュニティでの
    人間関係はとても大切なものでした。
    関わるコミュニティを簡単に
    変えることができないということは、
    そこでの人間関係は、
    できるかぎり円滑に進めていかなければなりません。
    日々の生活に支障がないように、
    できるかぎり周囲と良い関係を
    築いておく必要があります。
    嫌になったら、じゃぁ、別のコミュニティに行こう
    といったものではないからです。


    イエスさまの生きた時代のユダヤ人たちにとって、
    「会堂」または「シナゴーグ」と呼ばれる場所は、
    とても重要なコミュニティでした。
    そこは単に、ユダヤ人たちが
    神を一緒に礼拝するために
    あるだけの場所ではありません。
    子どもたちが教育を受ける場所でもありました。
    また、エルサレムから離れた場所で暮らす
    ユダヤ人たちにとっては、
    自分が暮らす地域にある会堂は、
    同じ地域に住むユダヤ人との交流の場でしたし、
    ユダヤ人同士の結びつきの象徴でもありました。
    きょう読んだヨハネによる福音書の物語に
    イエスさまが起こした奇跡によって
    目が見えるようになった人の両親が登場します。
    彼らは、ユダヤの宗教的な指導者であった
    ファリサイ派の人たちから
    自分たちの息子について質問されています。
    ヨハネはその時の様子について、
    彼らはファリサイ派の人たちのことを
    恐れていたと記録しています。
    なぜこの両親たちは、
    ファリサイ派の人たちを恐れたのでしょうか。


    それは、もしもイエスという人が
    救い主メシアだというような発言をしたならば、
    会堂から追い出される可能性があったからです。
    会堂からの追放は、
    単に神を礼拝する場所を
    失うだけでは済みませんでした。
    それは、ユダヤ人たちの社会から仲間外れにされ、
    のけ者にされることも意味していました。
    つまりそれは、これまで培ってきた
    近所の人たちや友人たちとの関係、
    そして、もしかしたら家族との関係さえも、
    失ってしまう可能性がありました。
    ですから、会堂からの追放とは、
    ユダヤ人社会からの追放に他なりません。
    そのような事態は、
    どうにかして避ける必要のあるものでした。
    だから、イエスさまが起こした奇跡によって
    目が見えるようになった人の両親は、
    自分たちの息子が
    目が見えるようになったことについて、
    ファリサイ派の人たちから尋ねられても、
    はっきりと答えることはありませんでした。
    実際に、自分たちの息子から
    イエスという人のおかげで、
    目が見えるようになったと聞いていたとしても、
    それを繰り返すことはしませんし、
    その意味を自分たちで考えて、
    解釈した結果を伝えることもしませんでした。
    ただ、本人に聞いてくださいと伝えるだけでした。


    両親たちがこのように答えたのは、
    明らかに、彼ら自身がユダヤ社会のコミュニティから
    排除されることを恐れたからです。
    けれども、よくよく考えてみると、
    今度は、彼らの息子が
    追放の危険に晒されていることに気づきます。
    目が見えるようになった彼らの息子は、
    これまで、明らかにユダヤ社会から
    排除されてきた人でした。
    あの人は罪人だ、汚れた人だとみなされ、
    目が見えない人たちは
    社会ののけ者にされていたことが、
    イエスさまの弟子たちや
    近所の人びとの言葉からわかります。
    イエスさまの起こした奇跡によって、
    この人は、目が見えるようになりました。
    彼をユダヤ社会から排除する原因となっていた、
    目が見えないという状態が解消されたため、
    彼はユダヤ社会のコミュニティの中へと今、
    受け入れられようとしていました。
    けれども、彼の両親は、ファリサイ派の人たちに、
    彼が目が見えるようになった事情やその経緯は、
    本人に詳しく聞いてくれと言って、
    ファリサイ派の人たちを追い返しています。
    目が見えるようになった彼らの息子が、
    自分の目を見えるようにしてくれたイエスさまを
    メシアであると言おうものならば、
    彼らの息子の方が
    会堂から追放されることになってしまいます。
    両親の抱いた恐れは、
    目が見えるようになって
    コミュニティの中に受け入れられるようになった
    この息子を再びユダヤ社会のコミュニティの外へと
    排除する危険を彼に与えることになってしまいました。


    ヨハネがこのような物語を紹介するのは、
    ファリサイ派の人たちのことばかり恐れて、
    自己保身に走り、息子のことを考えられなかった、
    この両親を断罪するためではないでしょう。
    そうではなく、恐れに支配されるとき、
    私たち人間の集まりであるコミュニティは、
    私たちがお互いとに手を取り合って共に生きる共同体は、
    誰かを排除してしまう。
    そんな私たち人間が抱えている現実を
    この物語は私たちに指摘しているかのようです。
    確かに、それは私たちの社会の中で、
    私たちの身の回りで何度も何度も、
    繰り返し起こっていることです。
    知らないから、恐ろしい。
    言葉がわからない、
    文化がわからないから、恐ろしい。
    自分とあの人は考え方が違うから、恐ろしい。
    きっとわかりあえないから、恐ろしい。
    だから、目に見えない壁を作り、
    本来あるはずのない境界線を引いてしまいます。
    自分たちのコミュニティの中にいる人と、
    外にいる人を分けようとしてしまいます。
    自分たちの共同体の中にいる人に向かって、
    あの人はここにいるべきではないと
    線引きをしてしまいます。


    イエスさまは、そのように恐れに支配され、
    恐れに反応して形作られていた
    コミュニティの中にあって、
    目が見えない人に手を差し伸べました。
    それは、恐れに基づいて
    他者を排除することではなく、
    愛や憐れみに基づいて他者を受け止め、
    壁や境界線を乗り越える行為でした。


    ヨハネはこの出来事が
    安息日に起こったと記録しています。
    イエスさまが目の見えない人の目を開いた
    この出来事を巡って、人びとは議論しました。
    7日に1度の決められた日は働いてはいけないと
    規定されている安息日において、
    イエスさまが行ったこの治療行為は、
    正しいものであったのか、と人びとは論じ合いました。
    彼らの判断は揺れて、
    お互いに意見が分かれています。
    けれども、イエスさまの関心は
    正しさの追求ではありませんでした。
    安息日という規定は、
    すべての人間が性別も、
    社会的立場も、生まれも、
    何もかも関係なく、
    平等に休むことができるという日です。
    他の人たちと同じように、
    ユダヤ社会のコミュニティの中に
    目が見えない人を受け入れ、
    受け止めることを実現するための行動こそ、
    イエスさまにとって
    まさに安息日に相応しい行動でした。
    恐れではなく、誰もが安息を手にすることができる。
    そんなコミュニティを目指したから、
    誰もが平等に安息を手にすることが
    期待されている安息日に、
    イエスさまは目が見えない
    この人に手を差し伸べたのでしょう。


    きょう、わたしたちは礼拝のはじめに、
    ヘブライ人への手紙を読みました。
    そこで、著者は、「安息日の休みは、
    神の民にまだ残されています」(ヘブライ4:9)
    と書いています。
    私たちは神が与える安息を
    完全に手にしているわけではありません。
    私たちが関わるあらゆるコミュニティにおいて、
    愛や憐れみが溢れて、
    すべての人の立場が
    尊重されているわけではありません。
    気づかないうちに、排除されている、
    無視されている人がいます。
    また、この世界に広がる現実を見つめるならば、
    安息の実現など更に程遠いものに思えてきます。
    停戦が合意されたかと思えば、また戦いが始まる。
    さらなる戦いの火種がいくつもある。
    報復に次ぐ報復は止まらない。
    戦いを止める努力が行われているかと思えば、
    強者の論理で物事が決まっていき、
    立場が弱く、力のない人たちのことが
    軽んじられた決定が積み重ねられてしまう。
    そのような世界において、心休まる暇もありません。
    国同士が、民族同士が、お互いを信頼しきれず、
    不信感と恐れと敵意を育み、更に大きくしています。
    だから、私たちはあらゆる人にとっての
    安息の実現を神に祈り求めながら、
    信仰の旅路をきょうも歩んでいます。


    私たちは毎週日曜日、この場所に集い、
    共に神を礼拝しています。
    教会は、恐れに支配されて、
    不信感をお互いに育み合い、
    恐れに基づいてお互いを排除する、
    そのようなコミュニティではありません。
    教会は、イエス・キリストが
    私たちを愛し、憐れんでくださったように、
    お互いに愛し合い、憐れみを抱いて、
    共に手を取り合って生きる人びとの集まりです。
    キリストの下で生きる私たちにとって、
    社会的な立場も、生まれも、話す言葉も、
    性別も、年齢の違いも関係ありません。
    それらは恐れを私たちの間で培う原因とはなりません。
    私たち教会にとって、
    恐れではなく、キリストにある愛や憐れみこそが、
    私たちのこのコミュニティを覆い、
    包み込んでいる原則です。
    愛や憐れみに基づいた交わりを保ち続けるからこそ、
    そこに安息が実現し続けるのではないでしょうか。
    もちろん、私たちは完全な
    安息を手にしているわけではありません。
    けれども、主キリストにあって、安息は用意され、
    神と共に生きる安息へと招かれています。
    すべての人が手を取り合って、
    お互いに心から受け入れ合える、
    そんな安息の日へと私たちは向かっています。
    そんな未来の実現を望み見ながら、
    天の御国を目指して歩んでいる。
    それが私たち教会の正体です。
    どうかこの交わりを通して手にした安息が
    みなさんの日常の中に、関わる人たちの間に
    少しずつ広がっていきますように。

週報より

  • 2025.03.23 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝後に、月報『モレノ』編集会をおこないます。
    モレノ・チームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    編集会にはどなたでも参加いただけます。一度だけの参加も可能です。
    月報『モレノ』への原稿・表紙絵・挿絵・写真などのご寄稿は大歓迎です。
    教会へのメールやLINE、手渡しなどでご寄稿いただけます。
    どなたでも、いつでも、ご寄稿ください。
    ② 春休み中の子どものみなさんへのお知らせ
    はるやすみのあいだ、きょうかいで あそんで すごせるひを よういしました。
    3/25, 26, 27, 4/1, 2, 3で、じかんは9:30から ごご1:00までです。
    れいはいどうにボードゲームやおりがみなどを よういしておくので、
    あそびにきてくださいね。
    ③ 今月から毎月第一日曜日の礼拝後に、賛美歌を歌う会をはじめました。
    なじみのある賛美歌を歌いますので、ぜひご予定ください。
    歌いたい賛美歌がありましたら、牧師までお知らせください。
    ④ この春に、進学や進級などで環境が変わる方々のことを覚えて祈ります。
    卒業・卒園、進学・進級、転職、就職などによって、
    この春から環境が新しく変わる方々の上に、神の守りと祝福を祈っています。
    ⑤ 3月20日(木・祝)に小山市内教会子ども交流会が開催されました。
    天候にも恵まれ、市内の教会の方々と楽しい時間を過ごすことができました。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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