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朗読箇所

四旬節第5主日

旧約 サムエル記 上 16:1–13

◆ダビデ、油を注がれる
1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。


新約 ヨハネによる福音書 9:24–34


24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

説教

小さな声に耳を傾け続ける

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    世界中のキリスト教会は今、
    レントまたは四旬節
    と呼ばれる期間を過ごしています。
    この期間は、私たちが自分の罪深さと向き合い、
    神に祈りを捧げる期間です。
    レントは毎年くりかえし訪れるものですので、
    私たちは定期的に自分の罪深さと向き合い、
    神に祈るようにと、
    教会の暦を通して促されているといえます。
    また、私たちの教会では毎週、
    礼拝の前半で
    罪の悔い改めの祈りを捧げています。
    このようにキリスト教会が、
    定期的に私たちの目を
    自分たちやこの世界の罪に向けるのは、
    聖書とキリスト教会の伝統が
    私たち人間、誰もが罪人であると
    受け止めているからです。
    それは、誰もが犯罪者
    という意味ではありません。
    誰もが神に背いて生きてしまっている。
    その事実をキリスト教会は
    重く、真剣に受け止めています。
    神の願いは、私たち人間が
    お互いに手を取り合って、
    愛と憐れみの心を抱いて、
    平和のうちに生きることにあります。
    けれども、国家や民族の間においては、
    数多くの争いや暴力があります。
    この数年の間、一度戦いを始めてしまったら、
    愛や憐れみを忘れ、
    見境のない暴力が継続することを
    私たちは何度見せつけられてきたことでしょうか。
    世界を広く見渡さなかったとしても、
    私たちの日常にも、周囲にも、
    たくさんの争いごとやトラブルがあります。
    いじめや人の悪口、噂話が絶えません。
    進んでそういったことに
    加担していなかったとしても、
    何気ない言葉や行動で誰かを
    大切な人たちを傷つけてしまっています。
    手を取り合って、
    神が願う平和への道を目指すよりも、
    お互いの命を傷つけ合い、
    蹴落とし合ってしまう。
    それが私たち人間誰もが
    抱えている現実だと受け止めているから、
    私たちは毎週の礼拝ごとに
    罪の悔い改めを祈り続けています。
    そして、この罪から私たちを救い、
    イエス・キリストを通して私たちに
    命を与えてくださった神に
    私たちは礼拝を通して
    いつも感謝をあらわし続けています。


    そのような理解の中で
    きょう開いたヨハネによる福音書の物語を
    読み直してみると、
    驚きを覚える方もいるのではないでしょうか。
    というのも、この物語に登場する
    ユダヤ人と呼ばれている、
    当時の宗教的な指導者たちは
    イエスさまについて「罪人である」と
    断言しているからです。
    また、イエスさまの行った奇跡を通して、
    目が見えるようになった人に向かっては、
    「全く罪の中に生まれた」と告げているからです。
    誰もが罪人であるという理解に立つならば、
    敢えて特定の人に対して「罪人である」というのは、
    とても攻撃的で、否定的な意味を
    持つように思えます。
    ましてそれが宗教的な指導者からの
    言葉であったならば、どうでしょうか?
    それは強い拒絶を意味する言葉となるでしょう。


    ユダヤの宗教指導者たちの
    イエスさまに対する拒絶は、
    この段階では既に、
    動かないものになっていたようです。
    「イエスというあの男は罪人なんだ。
    そうだろ?
    さぁ、正直に言いなさい」といったような口ぶりで、
    彼らは目が見えるようになった人が、
    イエスさまは罪人だと
    証言するように促しているからです。
    けれども、目が見えるようになった人は、
    彼らの言葉に同意しません。
    「イエスという人が罪人かどうかはわかりません。
    でも、確かなことは、
    目が見えなかった自分が
    今は目が見えることです」と、
    目が見えるようになった人は、
    自分が経験した確かな事実を伝えます。
    ユダヤの宗教指導者たちは、
    明らかに問題を抱える罪のある人が、
    目が見えない人の目を見えるようにするような
    神の奇跡のわざを行えるはずがないと
    考えていました。
    だから、そんな彼らにとって、
    この人が目が見えるようになったことに、
    自分たちが罪人と考えるイエスという男が
    関わったなんて、到底信じられません。
    だから、彼らは「どうやってあの人は、
    あなたの目を開けたのですか」と尋ねました。
    実は、彼らからこのように尋ねられたのは、
    これが初めてではありませんでした。
    この福音書の中で記録されている限りでは、
    これが3度目の問いかけです。
    もしかしたら、何度も何度も
    同じ質問をされたのかもしれません。
    ですから、皮肉交じりに、
    何度も同じ質問をしてきた彼らに
    目が見えるようになったこの人は抗議します。
    「もうお話したのに、
    あなたたちは聞いてくださいませんでした。
    なぜまた、聞こうとなさるのですか。
    なるほど、
    あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」


    目が見えるようになった人のこの抗議の声は、
    ユダヤの宗教指導者たちの問題が
    明らかになった瞬間でした。
    それは、聞かない、
    耳を傾けないという問題です。
    何度も話しているのに、
    何度も伝えているのに、
    伝わっていない。
    聞いていない。
    彼らの望んでいる言葉ではなかったから、
    つまり、イエスさまを罪人だと
    証言するような言葉ではなかったから、
    目が見えるようになったこの人の言葉は、
    彼らには届きませんでした。
    だから、何度も何度も、
    彼らはイエスさまを否定する材料を求めて、
    この人に尋ね続けたのです。


    最終的に、ユダヤの宗教指導者たちは、
    目が見えるようになったこの人を
    彼らのもとから追放します。
    この人は、イエスさまについて
    不利な材料を語ることは一切しませんでした。
    寧ろ、イエスさまを救い主メシアとして
    認めるような発言ばかりをしたために、
    この人は追放されることになりました。
    目が見えるようになった人が追放された際、
    彼らはこの人に向かって、
    「お前は全く罪の中から生まれたのに、
    我々に教えようというのか」と伝えています。
    ユダヤの宗教指導者たちの最後の言葉は、
    彼らが目が見えるようになった人の言葉に
    なぜ耳を傾けなかったのかが
    よくわかる言葉です。
    目が見えるようになったとはいえ、
    この人は長い間、目が見えないでいた人でした。
    ユダヤ社会において、目が見えない人は、
    罪人であるという偏見がありました。
    そんな偏見であり、差別意識が、
    最後の最後に、表に出てきます。
    「お前は全く罪の中から生まれたのに、
    我々に教えようというのか」と彼らは
    自分たち自身の差別意識や偏見を明らかにし、
    結局、この人の言葉を真剣に聞こうとしていない
    自分たちの姿勢を明らかにしています。
    結局のところ、彼らにとって、
    目が見えない人が癒やされたことなど、
    どうでも良いことだったのです。
    それよりも、イエスについて
    不利な証言を得られれば良い。
    目が見えるようになったこの人は、
    彼らからそういった扱いを受けています。
    そしてその上、彼らは
    目が見えるようになった人から
    教えられることは望んでいません。
    この人の言葉に真剣に耳を傾けるような、
    そのような価値を認めていません。
    寧ろこの物語において、
    目が見えるようになったこの人は、
    ユダヤの宗教指導者たちにとっては、
    イエスさまについての不利な証言を
    引き出すための道具のように扱われています。
    道具のように扱われているから、
    彼らの望む言葉を語らず、
    寧ろ、彼らにとって
    不利な証言をしたこの人は、
    彼らから追放されることになったのでしょう。


    ユダヤの宗教指導者たちの取った
    このような姿勢は、
    何も彼ら特有の問題ではありません。
    この世界の至る所において
    見受けられるものではないでしょうか。
    あの人は問題があると、
    偏見に基づいたレッテルを貼られています。
    思い込みや勝手な想像、噂話から、
    差別やいじめが広がっていきます。
    自分にとって都合の良い形で動く、
    駒や道具のようであってほしいと
    心のどこかで願ってしまいます。
    それが叶わないと
    不機嫌になってしまいます。
    傷ついている人たち、
    社会の中で隅の方へ追いやられ、小さくされ、
    苦しんでいる人たちの声を無視してしまう。
    しょうがない、どうしようもないことだと、
    聞こえないものにしてしまう。
    そう、ユダヤの宗教指導者たちが
    目が見えるようになった人に対して取った姿勢は、
    私たちも決して無視できないことです。
    それは、私たち自身のことであり、
    私たちの生きるこの世界のことだからです。


    そんな私たちのために、
    私たちが生きるこの世界のために、
    神は私たちのもとに来てくださいました。
    この世界に罪の赦しを与え、
    この世界に生きるすべての人に
    命の光を灯すために、
    神の子である、イエス・キリストが
    来てくださいました。
    イエスさまは、どれだけ拒絶されようとも、
    人びとと向き合い続ける方でした。
    罪人と言われ、偏見の眼差しを
    浴びていた人たちのところに、
    イエスさまは自ら進んで出かけていく方でした。
    そして、ユダヤ社会の小さな、小さな声に
    耳を傾け続けました。
    そんなイエスさまの姿を見て、
    イエスさまのように生きたい。
    社会的な立場や、血縁や、貧富の差など関係なく、
    お互いに、手を取り合いたい。
    小さな声に耳を傾け続けて、
    誰にとっても、安心して
    集える場所であり続けたい。
    そんな思いを、夢を持ち続けているのが、
    教会という信仰者たちの集まりです。


    私たちが生きる社会は、少しずつ、
    社会で抑圧されている
    小さな声に耳を傾けられるように
    なってきているように思えます。
    バリアフリーは進み、
    できる限り多くの人が生きやすい、
    ユニバーサルデザインの導入は進んでいます。
    人間の性が、男と女に完全に二分される、
    という考えは誤りであった
    という反省の声は広がり、
    性の多様性は
    受け入れられるようになってきています。
    外国人の受け入れが増えてきたこともあり、
    日本語以外の言語のサポートも見受けられます。
    けれどもその一方で、
    小さな声は存在し続けています。
    この社会における生きにくさは、
    多くの人の目に
    見えにくくなってしまっているだけです。
    小さな声、少数の人たちを排除する声が
    聞こえにくくなっているだけです。
    寧ろそれは、私たちの無意識な行動や
    社会構造の中に現れてしまうからです。


    だからこそ、私たちは
    この世界で生きる人たちのさまざまな立場を
    置かれている状況を
    愛と憐れみをもって、
    想像する、思い描く必要があります。
    私たちの生きる社会で響く
    小さな小さな声に
    耳を傾け続ける必要があります。
    教会って、そのような共同体のあり方を
    諦めていない群れなのだと思います。
    だって、何よりも、イエスさまが
    そのような歩みをされていたからです。
    ですから、イエスさまを信じ、
    イエスさまと共に歩む私たちにとって、
    この世界のあらゆる小さな声に耳を傾け続けて、
    あらゆる人たちと一緒に手を取り合って
    歩んで行こうとする共同体を作り、
    そのような共同体であり続けたいと願うことは、
    とても自然なことです。
    そんな夢を見続けながら一緒に、
    私たちはこれからも天の御国を目指して
    一緒に信仰の旅を続けていきましょう。

週報より

  • 2025.03.30 週報より抜粋・要約

  • ① 春休み中の子どものみなさんへのお知らせ はるやすみのあいだ、きょうかいで あそんで すごせるひを よういしました。 4/1, 2, 3で、じかんは9:30から ごご1:00までです。 れいはいどうにボードゲームやおりがみなどを よういしておくので、 あそびにきてくださいね。 ② 聖書を読む会のお知らせ (毎月第2・第4水曜日 午前10時30分より) 有志の方による聖書を読む会が昨年から始まりました。 この度、教会の集会として継続させていただくことになりました。 毎月第2・第4水曜日、午前10時30分から、付属館の1階で開催しています。 聖書協会共同訳で聖書を読み進めたい方は、どうぞご参加ください。 ③ 4月から小山市の燃えるゴミの袋が指定のものになります。 「もやすしかないごみ」と赤字で書かれたものが指定のものです。 燃えるゴミの袋を変更する機会がある場合は、ご注意ください。 雑草や落ち葉のみの場合は、指定の袋を使用する必要はありません。 ゴミを捨てる際には、ゴミの分別にもご協力よろしくお願いいたします。 ④ 今年4月1日に宇都宮伝道所正式発足から数えて50年を迎えます。 1975年4月1日に小山教会の前身である宇都宮伝道所が正式発足しました。 今年で50年を迎えることになります。(宇都宮での宣教開始からは51年) そこで次週の礼拝では50周年を記念し、礼拝の中で感謝の祈りを祈ります。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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