小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  聞いて、見つけてくださる神

朗読箇所

四旬節第5主日

旧約 出エジプト記 3:7–10


7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」


新約 ヨハネによる福音書 9:35–41

◆ファリサイ派の人々の罪
35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

説教

聞いて、見つけてくださる神

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ヨハネによる福音書9章は、
    イエスさまが起こした奇跡によって、
    目が見えない人の目が見えるようになった
    という物語を紹介しています。
    この物語は、イエスさまの弟子たちが
    目が見えない人について、
    イエスさまに尋ねることから始まりました。
    「この人が目が見えないのは、
    誰の罪が原因ですか?」と尋ねる、
    彼らの問いは、偏見に満ちたものでした。
    目が見えないこの人か、
    彼の両親に問題があるから、
    彼は目が見えないでいる。
    だから彼は1日中この場所で座って、
    物乞いをしていなければいけない。
    そうだ、そうに違いない。
    まさに目が見えない彼に問題があるんだ。
    そうでしょ?イエスさま?


    このように考えていたのは、
    何もイエスさまの弟子たちだけではありません。
    当時のユダヤに生きる人たちの多くが
    同じように考えていたであろうことは、
    この物語で登場する
    他の人の発言からもわかることです。
    弟子たちの言葉は、
    そんな彼らの生きた社会で
    当然と受け止められていた考え方を
    代弁したようなものでした。
    この目が見えない人自身に問題があるから、
    彼の目はいつまでも見えるようにならない。
    そんな差別意識であふれる言葉は、
    当時の人たちにとっても、
    常識的で、ありふれた考え方でした。
    目が見えないために
    生活の不自由さを抱えるだけでなく、
    罪人と指さされ、差別される。
    そして、ユダヤ社会から拒絶され、
    社会の辺境に追いやられている。
    目が見えない人の置かれた
    そのような状況が描かれることから、
    この物語は始まっていました。


    生まれつき目が見えない人が
    登場するこの物語は、
    そんな彼らの常識を否定し、
    覆すかのような形で幕を閉じます。
    イエスさまは弟子たちの発言とは真逆のことを
    ファリサイ派の人たちの前で伝えています。
    イエスさまはこう言います。
    「見えない者であったなら、
    罪はないであろう。
    しかし、現に今、『見える』と
    あなたがたは言っている。
    だから、あなたがたの罪は残る。」
    これって、目が見えない人は罪人だという、
    当時の常識とは真逆のことを言っています。
    見えていない人たちに罪がある?
    違うよ。
    寧ろ、目が見えていると思っている
    あなたたちの方に罪があるんですよ
    と、イエスさまは彼らに伝えています。


    一体何が問題なのでしょうか。
    ファリサイ派の人たちには
    何が見えていないというのでしょうか。
    彼らは目が見えない人は罪人であり、
    イエスさまもまた罪人である
    という偏見に基づきながら、
    この出来事に関わりました。
    だから、彼らは
    目が見えるようになった人のことも、
    イエスさまのことも
    知ろうとはしませんでした。
    彼らはこの二人と
    真剣に向き合おうともしませんでした。
    だから、イエスさまを通して、
    目が見えない人に神が手を差し伸べた時、
    イエスさまの働きを
    イエスさまを通して神が行ったものとして
    見つめることができませんでした。
    その目で見ているのに、
    彼らには見えていませんでした。
    どれだけ語り合おうとも、
    彼らは、目が見えるようになった人のことを
    罪人と断罪し、
    神から見捨てられている人として扱いました。
    まさに、彼らは見えているようで、
    イエスさまのことも、
    目が見えるようになった人のことも、
    彼らに及ぶ神の働きも、
    まったく見ようともしていませんでした。


    このようなことを
    イエスさまが指摘する形で
    この物語は終わりを告げているため、
    聖書協会共同訳は、きょうの物語の表題に、
    「ファリサイ派の人々の罪」と付けています。
    たしかにこの物語に登場する
    ファリサイ派の人びとには問題があります。
    目の前の相手は罪人である
    という考えを決して曲げず、
    目が見えなかった人が
    目が見えるようになったことを
    一緒に喜ぼうともしません。
    むしろ、イエスさまを肯定的に受け止める
    目が見えるようになった人を拒絶し、
    会堂から追放しました。
    そんなユダヤの宗教指導者たちの
    言動を問題視し、
    告発することが
    この物語の主軸ではありません。
    あくまでも、この物語は、
    目が見えるようにされた人と
    彼に関わるイエスさまに
    スポットを当てています。


    9章の物語全体を通して、
    イエスさまは目が見えなかった人の
    目を開いた以降、登場しませんでした。
    ずっと、目が開かれた人を中心にして、
    物語は展開されてきました。
    しかし、当事者である彼に
    問題が起こった時、
    イエスさまは動き始めました。
    そう、彼が会堂から追放されたと知った時、
    また再び、ユダヤ社会から
    彼が排除されようとしているその時、
    イエスさまは彼に手を伸ばされました。
    このときの出来事について、
    日本語訳の聖書からは、
    イエスさまが町の中を歩いていたら、
    偶然、あの時目を見えるようにした彼と
    また出会ったから声をかけた
    という印象を受けるかもしれません。
    けれども、ここでは「見つける」
    という意味の単語が使われています。
    もちろん、努力して探した末に
    見つけることもあれば、
    偶然見つけることだってあるので、
    「見つける」という意味のこの単語だけ見ても、
    どちらの意味かはわかりません。
    でも、この「見つける」
    という意味の単語に注目して、
    ヨハネによる福音書を読み返してみると、
    イエスさまに従って
    ついくことを決めた弟子たちに、
    イエスさまが最初に会いに行った時に、
    この単語が使われていることに気づきます。
    そう、イエスさまは目的をもって、
    明確な意思をもって、
    ご自分の弟子たちを探し、
    彼らと出会いました。
    同じように、イエスさまは
    目が見えるようになったこの人を探して、
    彼を見つけ出したのです。
    イエスさまのこの行動のきっかけになったのが、
    彼が外に追い出されたことを
    イエスさまが聞いたことにありました。


    それは、まさに、
    イエスさまがどのような方なのかを
    私たちに示す出来事でした。
    そして、何よりも、イエスさまを
    私たちのもとに遣わしてくださった
    神の願いを明らかにする瞬間でした。
    きょうは旧約聖書から
    出エジプト記を開きました。
    出エジプト記は、イスラエルの民が
    エジプトで奴隷状態にされ、
    彼らの民族が存続の危機に立たされていた、
    そのような時代から始まります。
    エジプトでの重労働に苦しんでいた、
    イスラエルの民の叫び声に、
    神は決して耳を塞ぎませんでした。
    苦しむ彼らの叫び声に耳を傾け、
    彼らの様子を見つめた神は
    彼らを憐れみ、
    イスラエルの民を救い出すために、
    動き出しました。
    イスラエルの民が直面した危機と、
    叫び声を上げた彼らの声に耳を傾けて
    動き出した神の姿を描くことから、
    出エジプト記の物語は始まっています。
    神は、人びとの苦しみや悲しみを
    決して、放置することができません。
    そのような方として、
    神は自らのことを明らかにしています。
    エジプトからイスラエルの民を
    救い出すことを決めた神は、
    イスラエルの指導者であるモーセに、
    そんなご自分の思いをこのように伝えました。
    「私は、エジプトにおける
    私の民の苦しみをつぶさに見、
    追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、
    その痛みを確かに知った。
    それで、私は降って行って、
    私の民をエジプトの手から救い出」すと、
    神は力強く宣言しています。
    ユダヤの会堂から追い出されて、
    居場所を失い、途方に暮れていたであろう、
    目が見えるようになった彼のことを聞いた時、
    イエスさまはまさに憐れみに心が動かされ、
    彼を探しに出かけ、彼を見つけました。
    起こってしまった事態に悲しみ、
    動揺する彼のもとに駆けつけ、
    イエスさまは手を伸ばしました。
    イエスさまを信じる人びとの交わりの中に、
    会堂を追い出され、
    居場所を失ってしまった彼を
    受け止めるために、
    イエスさまは彼を探し出したのです。
    そんなイエスさまの姿は、
    出エジプト記で描かれている
    神の姿と重なってこないでしょうか。


    ところで、この時、イエスさまが
    彼に語りかけた言葉から、
    少し不思議な印象を覚えるかもしれません。
    「私がこの世に来たのは、裁くためである」と、
    イエスさまは彼に言います。
    裁きという言葉からは、
    人びとの罪を明らかにし、
    断罪するような印象を受けるかもしれません。
    これまで人びとから偏見の目で見られ、
    何度も罪を指摘され、
    苦しんできた彼に向かって、
    「裁くために来た」というのは、
    とても厳しい印象を
    与える言葉のように感じます。
    たしかに、この世界に
    はびこる罪を神が厳しい裁き、
    この世界に神の正義が実現し、
    神によって平和がもたらされることは、
    誰もが待ち望んでいることです。
    けれども、そういったことを
    個人的に伝えるために、
    イエスさまはこのとき、
    彼に向かって「裁くために来た」と
    語りかけたとは思えません。
    寧ろ、適切に裁くためには、
    きちんと目の前の人のことを
    見つめる必要があります。
    そう、社会の片隅に追いやられ、
    苦しんでいた彼こそ、
    偏見の目を取り払われて、
    他の人から見つめられる必要がありました。
    罪を指摘されるためではなく、
    罪の赦しを受けることが
    彼には必要でした。
    イエスさまは、まさにそのために、
    彼のもとにやって来ました。
    そして同じように、
    憐れみをもって
    私たち一人ひとりに目を注ぎ、
    私たちのことを探し出し、見つけて、
    私たちに向かって手を伸ばすために、
    イエスさまは私たちのもとに
    来てくださっています。
    そのようにして、私たちを神のもとに招き、
    そして、教会という交わりの中に
    招き続けてくださっているのが、
    私たちの救い主であるイエスさまの姿です。


    イエスさまが私たちを探し出して、
    見つける方法は実に様々です。
    当然、誰もが同じような方法で、
    イエスさまと出会うわけではありません。
    ある人は家族が教会に通っていたから、
    自然とイエスさまと出会いました。
    ある人は家の近所に教会があったから、
    イエスさまと出会いました。
    ある人は友人に教会に連れて来られたから、
    イエスさまと出会いました。
    ある人は聖書を読んでいて、
    またある人は祈りの中で、
    イエスさまと出会いました。
    イエスさまは様々な方法で
    私たちと出会ってくださいました。
    そんなイエスさまは、
    何よりも、これからも、
    私たちの声に耳を傾け、
    私たちを見つけ出し、私たちに出会い、
    私たちの人生にいつも、
    手を差し伸べようとしてくださっています。
    私たち教会は、
    私たちのことを
    そんな風に見つけ出してくださる
    イエスさまとの出会いや
    イエスさまと共に生きることを
    心から喜び、その喜びを
    一緒に分かち合って生きる交わりです。
    イエスさまが私たち一人ひとりと出会い、
    私たちと共にいてくださっているということは、
    イエスさまは私たち自身を通しても、
    私たちのそばにいる誰かを見つけ、
    出会おうとしているということです。
    ですから、どうかイエスさまが抱く憐れみの心が
    みなさんの心を動かす時、
    どうかイエスさまと一緒に
    出かけて行くことができますように。
    私たちの叫び声にいつも耳を傾けて、
    私たちのことを探し、
    見つけてくださるイエスさまは、
    この世界であふれる叫び声に対しても、
    いつも耳を傾けて、探し出し、
    見つけようとしておられるのですから。
    神の愛や憐れみ、
    平和や慰めを必要としている人たちのことを
    私たちを用いて、イエスさまが見つけ、
    私たち通して、イエスさまが出会い、
    愛や憐れみ、平和や慰めを
    届けてくださいますように。
    私たちの声に耳を傾け、
    私たちを見つけてくださる
    主イエス・キリストの恵みが
    みなさんと共にありますように。

週報より

  • 2025.04.06 週報より抜粋・要約

  • ① 私たちの教会は4月1日に宇都宮伝道所正式発足から50年を迎えました。
    小山教会は1975年4月1日に宇都宮での伝道所からその歩みを始めました。
    1981年現在の会堂が建てられ、教会の歩みがきょうまで支えられてきました。
    きょうの礼拝では感謝ととりなしの祈りの中で、
    これまでの教会の歩みを守り導いてくださった神に感謝を捧げます。

    ② きょうは礼拝の後に賛美歌を歌う会を開催します。
    礼拝の後に、教会の皆さんに馴染みのある讃美歌を歌います(リクエスト歓迎)。

    ③ 次の日曜日は「しゅろの主日」です。
    生涯の最後の一週間をエルサレムで過ごしたキリストは、
    その最初の日に、エルサレムへ入城し、人びとに迎え入れられます。
    十字架上での死へと至る受難週が始まる最初の日として、
    わたしたちはこの日を記念します。
    しゅろの主日の次の日曜日(4月20日)は、復活祭(イースター)です。
    復活祭の日は、礼拝後に祝会(持ち寄りの食事会)を予定しています。
    また、祝会の後は有志の方で墓参に出かけます。

    ④ 聖書を読む会のお知らせ
    今週水曜日、午前10時30分〜11時30分に聖書を読む会があります。
    出席者全員で順番に聖書を朗読する会です。

    ⑤ 次の日曜日は礼拝の中で役員就任式、礼拝後に月例教会役員会を行います。


    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像