朗読箇所
しゅろの主日
旧約 ゼカリヤ書 9:9–10
◆
9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
10 わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。
新約 ヨハネによる福音書 19:1–16
◆
1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」
12 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
13 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。
14 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、
15 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。
16 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
説教
傷ついた主イエスを見つめることにどのような意味があるのか?
-
説教者 稲葉基嗣 牧師
きょうはしゅろの主日と呼ばれる日曜日です。
毎年3月または4月に訪れる
このしゅろの主日という日は、
イエスさまがエルサレムに
入場したときの出来事を記念する日です。
この日からしばらくした後、
イエスさまは逮捕され、
エルサレムで裁判にかけられ、
十字架にかけられ、
殺されることになります。
ですから、イエスさまがエルサレムで過ごした
最後の一週間の始まりの日を記念するのが、
しゅろの主日という日です。
きょうは開きませんでしたが、
ろばに乗ったイエスさまが
エルサレムに入場したとき、
エルサレムの人びとは
ナツメヤシの枝を手に持って、
イエスさまのことを歓迎しました。
人びとはイエスさまのことを喜んで迎え、
叫び続けた様子が
4つのすべての福音書に記録されています。
イエスさまに向かって人びとが、
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように
イスラエルの王に」(11:13)と叫び続けて、
イエスさまのことを歓迎したと、
ヨハネは記録しています。
そう、自分たちが待ち望んでいた
王さまがやって来た。
このイエスという人こそ、
自分たちの希望だと、
彼らが喜ぶ様子が描かれています。
彼らが手に持つナツメヤシは、
古代イスラエルやユダヤの人びとにとって、
繁栄や祝福を象徴する植物です。
待ち望んでいた王がエルサレムにやって来る。
それによって、自分たちは繁栄することになる。
神によって祝福される。
そんな期待に胸を膨らませて、
イエスさまのことを歓迎していたのでしょう。
私たちはきょう、詩編24篇を
一緒に声を合わせて読みました。
あの詩編の中で詩人は繰り返し、
「栄光の王とは誰か」と
この詩編を歌う人びとに問いかけています。
イエスさまを神が選んだ王として受け止め、
ナツメヤシの枝を振りながら歓迎する人びとは、
まるで「栄光の王とは誰か」
という問いかけに対して、
「まさにこの人です」
と応えているかのようです。
このように、イエスさまのエルサレム滞在は、
とても華やかに始まったように見えました。
イエスさまに反発する人たちも
中にはいましたが、
最終的には、神の子であるイエスさまが
多くの人たちから好意的に
受け止められている。
そのように感じ取れます。
ですから、イエスさまを通して
神が私たちと共にいるという、
神の計画がエルサレムにおいて、
確かに実現したことが
宣言されているシーンのように見えてきます。
けれども、実際のところは違っていました。
イエスさまが逮捕され、
裁判にかけられたとき、
人びとはどのように反応したでしょうか。
それはまるで、手のひらを返したかのような
正反対の反応であったことを
ヨハネによる福音書は記録しています。
あの日、エルサレムに入場したとき、
イエスさまに対して人びとが叫んだのは、
「ホサナ」、どうか救ってください
という意味の祈りの言葉でした。
当時のユダヤは、
ローマの属州となっていました。
そんな現在の自分たちを解放し、
自由と平和へと導く救い主メシアを、
神が選び、立ててくださる真の王を
彼らは求めていました。
でも、エルサレムにやって来たイエスさまは、
その数日後に、逮捕されてしまいます。
逮捕され、拷問を受け、
裁判にかけられたイエスさまに向かって、
人びとは何と言ったでしょうか?
「彼は無実です。
私たちの王を返してください」
とでも訴えたのでしょうか?
いいえ、無実を主張したのは、
民衆ではなく、イエスさまを裁く立場にあった、
ローマ人ピラトの方です。
イエスさまを逮捕した
ユダヤの宗教指導者たちは、
イエスさまの死を望みました。
そんな大きな声に同調するかのように、
裁判の席で人びとは、
イエスさまの死刑を求めて、
「十字架につけろ、十字架につけろ」
と叫び続けました(19:6, 15)。
エルサレム入場時の叫び声は沈黙し、
殺意に満ちた声が熱狂的に響きました。
イエスさまのことを
イスラエルの王として歓迎し、
受け止めようとしていた彼らでしたが、
最終的には、イエスさまのことを
徹底的に拒絶しました。
この時、イエスさまが味わったものは
人びとからの拒絶だけではありませんでした。
判決が出る前に、何度もムチを打たれ、
イエスさまの身体はボロボロでした。
もちろん、その痛みは
ムチを打たれるだけでは終わりません。
エルサレムの人びとが
ピラトに要求し続けた、
十字架刑というものは、
古代世界において、
最大の苦しみを与える処刑方法でした。
受刑者は、両腕と足に釘を打たれ、
それによって全体重を支えられます。
両腕を広げているため、
体重によって身体が下に沈むと、
息ができなくなってしまいます。
そのため、息をするために、
釘を打たれた両腕に
力を入れて身体を持ち上げると、
その両腕に激痛が走ります。
十字架刑は、
そのような激痛を伴う呼吸と
呼吸の出来ない休憩を
何時間もの間、続けなければいけない
残酷な処刑方法でした。
十字架にかけられた人たちの
最終的な死因は、
衰弱死や窒息死、または心停止です。
その上、十字架にかけられる受刑者たちは
裸にされて、誰もが見ることのできる、
高台などの公の場所で処刑されました。
ですから、人びとからの拒絶と
死の瞬間まで続く激痛に加えて、
人びとの見世物にされる辱めを受ける。
そのような経験をイエスさまは
この時に味わったことになります。
ピラトはそんなイエスさまを指して、
その場に集う人たちに向かって、言います。
「見よ、この人だ」(5節)。
ピラトは、イエスさまが
ユダヤ人の王を自称し、
人びとを扇動し、
混乱を招いているという訴えを
ユダヤの宗教指導者たちから
聞いていたのでしょう。
ムチを打たれて
傷だらけになったイエスさまに、
茨の冠をかぶせ、紫の衣を着せて、
イエスさまを王さまのような姿に見立てて、
ピラトはイエスさまのことを指さしました。
それは、ユダヤ人たちの王を自称していると
訴えられたイエスさまのことを
小馬鹿にしたような光景でした。
いや、むしろピラトのこの行動は、それ以上に、
ローマにとって何の脅威も感じられず、
大きな罪を犯したわけでもない
イエスさまを自分のもとに連れてきた
ユダヤ人たちを馬鹿にするような行動でした。
こんな弱々しく、恥に晒され、
傷だらけの王がいるだろうか?
これが君たちの王なんだろ?
そのように、イエスさまやユダヤ人たちに
恥を塗りつけるために、
ピラトはこの男を見なさいと言って、
イエスさまのことを指さしました。
ピラトにとって、彼のこの発言は、
自分のことを利用して
イエスさまを何としてでも
十字架にかけようとするユダヤ人たちに、
ささやかな抵抗をするかのような言葉でした。
でも、そんなピラトの意図したことを越えて、
傷ついたイエスさまを指し示して、
この人を見てくださいと伝える彼の言葉は、
イエスさまによって表される、信仰的な現実を
すべての人に指し示す言葉となりました。
たしかに、罪がないのにもかかわらず、
身体も心もボロボロになり、傷つき、
疲弊し、辱めを受け、人びとから拒絶され、
そして死へと向かっていくイエスさまの姿は、
決して希望を見出せるものではありません。
むしろ、絶望そのものです。
だって、神の子であるイエスさまの拒絶は、
私たちが神を拒絶してしまう現実を
映し出していますし、
何よりも、私たちが
お互いに傷つけ合ってしまい、
犠牲を生み出し続けている、
そんな私たち人間の罪深い現実を
映し出しているからです。
でも、それなのに、ヨハネによる福音書は、
ピラトの言葉を通して、
この傷ついたイエスさまに
目を向けるようにと私たちに迫ってきます。
なぜなのでしょうか。
それは、イエスさまのうちに
神の愛が現れているからです。
まことの王として、救い主メシアとして、
私たちのもとにやって来たイエスさまは、
決して、暴力や大きな権力で
すべての問題を解決することを
望みませんでした。
むしろ、生身のその身体で傷つきながら、
心をすり減らしながら、
イエスさまは出会う人たちに
神の愛や憐れみを示し続けました。
どれだけ文化的、宗教的な対立に
巻き込まれようとも、
どれだけ人びとの敵意に晒されようとも、
イエスさまは苦しんでいる人を
愛することをやめませんでした。
すべての人のもとに神の支配が訪れ、
平和のうちに生きる日が訪れることを
イエスさまは心から願いました。
その結果として、イエスさまは
宗教的な指導者たちから反感を買い、
逮捕され、命を落とすことになります。
神の愛と憐れみの実現を
この世界に願ったからこそ、
イエスさまはこの世界にはびこる
人間の罪の犠牲となってしまったのです。
ヨハネは、そんなイエスさまの姿を
見つめるようにと、私たちに促します。
この人を見てください。
傷ついて、血を流し、心をすり減らし、
私たちの罪のために、
死に向かって歩んでいった
イエス・キリストを見てください。
ここに、神の愛が溢れているんです。
どれだけ傷ついても、
私たちを決して諦めない。
最後まで私たちを愛し抜いてくださる。
そんな神の愛が、
イエス・キリストのうちに溢れているんです。
この人を見てください。
イエス・キリストを見つめてください。
傷つき、ボロボロになったイエスさまは、
私たちが日常的に経験する苦しみや悲しみ、
痛みや困難をよく知ってくださる方です。
きょうの礼拝の最初に開いた、
ヘブライ人への手紙の著者は、
イエスさまを大祭司と呼んでいます。
私たちのすべての苦しみや弱さを知って、
私たちのために祈り、
神にとりなしてくださるのが、
イエス・キリストという方です。
そして、私たちを諦めず、最後まで愛し抜き、
神の憐れみや平和を届けてくださる。
それが、私たちの救いである、
イエス・キリストです。
ピラトの言葉を用いて、
ヨハネはきょうも私たちに伝えてきます。
この人を見てください。
イエス・キリストを見つめてください。
キリストが傷つき、血を流し、
命を落としたのは、
この世界に神の愛と憐れみが
実現することを願ったからです。
傷ついたキリストの姿は、
私たちに対する神の愛の現れです。
私たちをいつまでも諦めず、見捨てない、
神の愛の現れです。
イエス・キリストを見つめてください。
この方こそ、私たちの平和の道しるべです。
どれだけ傷ついても、眼の前にいる人を愛し、
共に生きることを諦めない。
イエスさまのそんな姿を見つめるから、
私たちもそのような道を選ぶことができます。
イエスさまが私たちと一緒にいて、
私たち一人ひとりを結びつけてくださるから、
私たちも平和のうちに生きることができます。
ですから、いつもこの人を見てください。
キリストを見つめてください。
週報より
- 2025.03.30 週報より抜粋・要約
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① 春休み中の子どものみなさんへのお知らせ
はるやすみのあいだ、きょうかいで あそんで すごせるひを よういしました。
4/1, 2, 3で、じかんは9:30から ごご1:00までです。
れいはいどうにボードゲームやおりがみなどを よういしておくので、
あそびにきてくださいね。
② 聖書を読む会のお知らせ (毎月第2・第4水曜日 午前10時30分より)
有志の方による聖書を読む会が昨年から始まりました。
この度、教会の集会として継続させていただくことになりました。
毎月第2・第4水曜日、午前10時30分から、付属館の1階で開催しています。
聖書協会共同訳で聖書を読み進めたい方は、どうぞご参加ください。
③ 4月から小山市の燃えるゴミの袋が指定のものになります。
「もやすしかないごみ」と赤字で書かれたものが指定のものです。
燃えるゴミの袋を変更する機会がある場合は、ご注意ください。
雑草や落ち葉のみの場合は、指定の袋を使用する必要はありません。
ゴミを捨てる際には、ゴミの分別にもご協力よろしくお願いいたします。
④ 今年4月1日に宇都宮伝道所正式発足から数えて50年を迎えます。
1975年4月1日に小山教会の前身である宇都宮伝道所が正式発足しました。
今年で50年を迎えることになります。(宇都宮での宣教開始からは51年)
そこで次週の礼拝では50周年を記念し、礼拝の中で感謝の祈りを祈ります。
・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
・書き損じ・出し忘れのはがきをください
(アジア学院に寄付)
・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
牧師にお知らせください。
小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
詳しくは牧師にお尋ねください。
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以上