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朗読箇所

復活節6主日

旧約 創世記 2:4–7


4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。


ヨハネによる福音書 20:19–23

◆イエス、弟子たちに現れる
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

説教

弱さも違いも、神の息吹に包まれて

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    私たち人間の体は、
    水といくつかの基本的な成分で
    構成されています。
    中でも、水、タンパク質、
    脂質、ミネラルが主要なものです。
    これは現代の科学が教えてくれる、
    私たち人間の姿なわけです。
    ただ、私たちは何も
    そのような視点だけで、
    自分や周囲の人たちを、
    私たち人間の存在というものを
    見つめるわけではありませんね。
    私たちは体を持つだけではなく、
    心を持っています。
    そして、神との交わりを持つことができる
    霊を持っている存在です。
    他にも、人間とは
    どのような存在であるのかについて、
    実に様々なかたちで表現されてきました。
    人間とは、道具を使って
    モノを作り出す存在だ。
    いやいや、人間は社会的な生き物だ。
    たしかにそうかもしれないけど、
    人間は経済的な生き物だともいえるでしょ?
    こんな具合に、人間の構成要素や
    特徴や性質に目を向けて、
    じつに様々な角度から、
    私たち人間がどのような存在であるのか、
    様々な人たちが知恵を絞って考えてきました。


    きょう開いた創世記2章は、
    神が人間を土の塵によって形づくり、
    その鼻に息を吹きかけたことによって、
    人間は生きるものとなったと証言しています。
    これは一見、私たち人間の構成要素について、
    伝えている物語のように見えるかもしれません。
    けれども、土の塵と
    神の息という言い方は、
    人間がどういった物質で
    成り立っているのかを
    伝えているにしては、
    不確かで、曖昧なものです。
    もちろん、そもそも創世記は、
    人類の起源について、
    科学的な証明をすることを目的として
    生み出されたものではありません。
    むしろ、創世記は、
    人間というものが
    どのような存在であるのかを
    この物語を通して、
    象徴的に表そうとしています。


    創世記2章は、人間は、
    神が土の塵を用いて形作った
    と証言しています。
    創世記1章で描かれている世界の創造と
    創世記2章の物語を比較してみると、
    この言葉がいかに特徴的な響きを
    持っているのかがわかります。
    創世記1章は、神がこの世界に
    語りかけることによって、
    この世界に命が溢れていった
    様子を描いています。
    神は、世界全体を見渡しながら、
    一つ一つのものを秩序立て、
    一つ一つのものをデザインし、
    この世界を造ったということが
    強調されています。
    人間の創造についても、
    神が語りかけるだけで終わります。
    神が語りかけると、いつの間にか、
    そこに人間が存在するようになっています。
    このように世界の創造を描く創世記1章は、
    まるで、大きな建造物を設計し、
    建設現場の監督をする人のように、
    神のことを描いています。
    その一方で、創世記2章の記述からは、
    神がより近くでこの世界に
    関わっている印象を受けます。
    土で人間を形作った
    と記されているからです。
    「形作った」と訳されている言葉は、
    陶器師が一つ一つの作品を生み出す際に、
    用いられている単語です。
    ですから、神が土の塵を用いて、
    人を形作ったと描かれている
    その光景はまるで、
    神がこの世界に手を伸ばして、
    土を触り、手を汚しながら、
    陶芸家のように、
    人間を形作っているような印象を与えます。
    ひとつのとても大切な作品として、
    神は人間をデザインし、形作り、
    心を込めて完成させました。
    それが人間の創造であったと、
    創世記2章は伝えています。


    ただ、それは、創世記2章の
    この物語に登場する人間だけに
    限られた話ではありません。
    ここで人と訳されている言葉は、
    アダムという単語が使われています。
    アダムは、最初の人間の名前として
    一般的に理解されていますが、
    ここでは定冠詞がついています。
    定冠詞は、何を指すのか
    具体的にわかっている場合に
    使われるものです。
    英語で言うと、theのことです。
    旧約聖書が記された言語である、
    ヘブライ語で人の名前に
    この定冠詞がつくことはありません。
    つまり、ここでは明らかに
    最初の人間アダムが
    神によって造られましたと伝えるよりも、
    人類はこのような存在として
    神から造られている、
    ということを象徴的に伝えることに
    関心を持って記されています。
    つまり、最初の人間アダムは、
    神によって土から
    形作られたんだなと、
    この物語に耳を傾ける人たちが
    まるで他人事として
    この物語を聞くようには
    意図されてはいません。
    むしろここでは、
    この物語に耳を傾けるすべての人に、
    神が造った、私たち人間とは
    一体どのような存在であるのかを
    象徴的に伝えようとしています。
    この物語において、
    神は陶器師のように、
    大切に、愛情を込めて
    土の塵を用いて、
    人間を形作っています。
    同じように、神は一人一人の存在を
    大切に見つめて、じっくりと愛情を込めて、
    形作ってくださったことを
    この物語は伝えようとしています。


    陶器師の手によって作られる作品は、
    陶器を焼くときの温度や、
    手作業ゆえのゆらぎなど、
    様々な条件が重なることにより、
    決して同じ作品が
    できあがることはありません。
    そのため、神が陶器師のように、
    土の塵から人間を形作ることを描く
    この物語は、決して人間を
    工場で大量生産されたような存在としては
    描いていません。
    私たち人間は、まったく同じ姿をもち、
    同じ性格をもち、
    同じ行動をする存在ではありません。
    人間誰もがそれぞれに異なり、多様で、
    そして、とてもユニークな存在として、
    神によって、真心こめて形作られたと、
    この物語は伝えています。
    神が陶器師のように、
    人間を形作ってくださったのですから。
    ここでは、人間が明確に、
    こうあるべきだという姿は
    提示されていません。
    見た目においても、
    性格においても、
    生き方においても、
    こうあるべきという型は用意されていません。
    私という存在がどのような者であっても、
    神が私たち一人ひとり、それぞれを
    個性豊かに形作ってくださいました。
    陶器師が作り出す作品に、
    決して同じものがないように、
    神が愛情と熱意をもって、
    丹念に形作ってくださった。
    それが、私たち一人ひとりの存在です。


    このように、私たちのそれぞれの違いや、
    人間存在のユニークさを
    この物語はとても肯定的に描いています。
    ただ、それと同時に、
    土の塵という言葉を用いることによって、
    人間存在の弱さや儚さに
    目を向けることも忘れていません。
    土の塵という言葉は、
    人間を構成する素材を伝えるというよりは、
    死を思い起こさせる言葉です。
    きょう一緒に読んだ詩編90篇では、
    詩人が「塵」という言葉を
    とても印象的に用いています。


    「人の子らよ、帰れ」とあなたは言い
    人を塵に帰らせる。(詩編 90:3)


    このように詩人は歌い、
    塵という言葉を用いて、
    死を表現しています。
    そのため、創世記2章で
    人間の創造が描かれる際に用いられている、
    土の塵という言葉からは、
    人間の儚さや弱さ、
    その生命の有限性を思わされます。
    そう、永遠に生きるわけではない、
    土の塵のように取るに足りない、
    風が吹けばどこかへ消え去って行くような、
    儚さと弱さを抱えている存在として、
    人間は神によって造られた存在なんだと、
    この物語は私たちに伝えています。
    人間は確かに、一人ひとりが
    ユニークな違いを持って
    神によって心を込めて形作られました。
    けれども、誰もがこの身体や心に、
    弱さや儚さや脆さをあわせ持っています。
    そのようにして造られた人間に、
    神は息を吹きかけて、命を与えました。
    それはまるで、
    このふたつの事実を忘れないようにと、
    神が伝えているかのようです。


    このように、私たち人間は、
    誰もが違いやユニークさを持ちつつも、
    土の塵のように儚さを持っている。
    そのような存在として、
    神から命を与えられました。
    ただ、これらのうちどちらか一方を
    または両方を忘れてしまったり、
    見ないふりをしてしまうことがあります。
    現代社会において、確かに個性は尊重され、
    個々人の尊厳は大切にされています。
    けれども、それでも、神によって造られた
    私たち一人ひとりの違いやユニークさは、
    様々な発言や社会制度や文化によって、
    簡単に踏みにじられ、
    蔑ろにされてしまいます。
    時として、学生らしさという言葉や、
    男性や女性はこうあれという言葉などで、
    私たちは見えない型に
    押し込められてしまいます。
    そんな風に、個々の尊厳やアイデンティティは、
    あまりにも簡単に否定されています。
    ネットを開けば、人格否定の言葉は、
    いくらでも目にするでしょう。
    そんな文化の中で生きているから、
    神によって誰もが愛情を持って作られた、
    とてもユニークな存在であることを
    私たち自身もいとも簡単に忘れてしまいます。
    また、自分や共に生きる人たちが
    弱さや儚さや限界を
    抱えている存在であることを
    忘れてしまうこともあります。
    自分のその脆弱さに抵抗しようと、
    必死に強くあろうとしてしまいます。
    そうでないと、「ダメだ」「欠陥がある」
    といった声が聞こえてくる。
    そんな錯覚に陥るからです。
    神によって土の塵から造られたという、
    象徴的な事実から目を背けて、
    私たちはどこかで、
    自分たちの弱い部分や
    みっともない部分を
    覆い隠してしまいたくなります。
    そうやって、いつの間にか、
    私たちは、人間の弱さや儚さから
    目を背ける社会を形作ってしまっています。
    それは、神が私たち一人一人のことを
    個性的に、愛しさを持って形作ったことを
    否定するような社会ともいえるでしょう。
    だって、神が私たちのことを
    個性的に、ユニークに造ったのならば、
    私たちが持ち合わせている弱さや儚さだって、
    私たちの持つ個性やユニークさ、
    それぞれの持つ違いの一部
    であるはずなんですから。


    私たちがお互いに持っている
    違いや個性やユニークさも、
    そして、誰もが抱える弱さや儚さも、
    本来、神によって与えられているものです。
    そのすべてに神は命の息を吹きかけ、
    祝福のうちに今も私たちを生かし、
    日々、歩ませてくださっています。
    だから私たちは、自分たちのもとにある、
    違いやユニークさ、弱さや儚さを
    極端に恐れたり、拒絶したり、
    ないもののように取り扱う必要はありません。
    他者の中にある違いや限界を
    見下したり排除したりする必要もありません。
    そのすべてに、神は命の息を
    吹きかけてくださっているのですから。
    私たちがどれほど弱く、異なり、
    儚い存在であったとしても、
    神はそこに、命の息をいつも吹きかけ、
    命と価値を与えてくださっています。
    私たちの弱さも違いも、
    神の息吹に包まれています。


    けれども、私たちの生きるこの世界において、
    お互いの違いや弱さが
    神の命の息に包まれるどころか、
    人間の悪や罪に晒され、
    命が傷ついていることも事実です。
    ですから、そのような世界で
    私たちが生きているからこそ、
    お互いの違いや弱さを包み込む、
    神の命の息が、みなさんを通して、
    この世界に優しく吹き続けますように。
    どうか少しでも、
    私たち自身の周りにおいて、
    お互いのユニークさや違いが
    大切にされますように。
    そして、神の命の息に包まれている私たちが、
    お互いの弱さを知って、
    助け合い、手を取り合いながら、
    天の御国を目指して
    旅を続けていくことを通して、
    この命の息をこの世界に
    届けることができますように。
    そして、そんなみなさんに、
    イエスさまがいつも
    命の息を吹きかけてくださいますように。

週報より

  • 2025.05.25 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後にランチの会とクリーンアップデイを予定しています。
    きょうのランチの会のメニューは、セルフサービスのサンドイッチです。
    ランチの会は無料です(ランチ献金あり)。
    ランチの会のあとは、教会の大掃除を行います。
    清掃や整理が必要な箇所を壁に張っておきましたので、ご確認ください。

    ② きょうは月報『モレノ』編集会をランチの会中に開催します。
    来月発行予定の月報の相談をします。
    モレノ編集チームのみなさま、よろしくお願いいたします。

    ③ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    礼拝堂を長く使用するために、必要な定期的なメンテナンスです。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの上にある献金袋をご使用ください。

    ④ 今週27日(火)から29日(木)にナザレン伝道会議が大阪で開催されます。
    神学生の稲葉奈々さんが出席予定です。

    ⑤ シャン・グナラトネさんの就学支援のための募金は本日まで受け付けます。
    スリランカ・メソジスト教会の牧師であるニシャンタ先生より依頼を受けた、
    ニシャンタ先生のご子息のシャン・グナラトネさんの就学支援のための募金は、
    きょうまで集まった分を送金する予定です。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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