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朗読箇所

復活節7主日

旧約 創世記 2:4–17


4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」


マタイによる福音書 28:16–20

◆弟子たちを派遣する
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

説教

私たちの働き方改革

  • 説教者  稲葉基嗣 牧師

     

    6年前から「働き方改革」という名の下で、
    日本社会で労働環境の見直しが
    進められています。
    その改革の一環として、
    長時間労働の解消が目指されていますし、
    有給や、育児・介護のための休業を
    取りやすい環境が
    少しずつ整えられてきました。
    また、働く場所や働く時間帯などを選べる、
    多様な働き方も増えてきた印象があります。
    もちろん、個々の職場や分野などで、
    まだまだ課題も山積みでしょう。
    けれども、働くことだけが
    中心になりかねない日本社会において、
    それ以外のことを大切にできる
    時間的・精神的余裕を
    生み出そうとする意識が
    育まれていることは
    とても喜ばしいことです。
    ただ、それは同時に、
    現代の日本社会は、
    労働の意味について改めて
    考える必要を迫られている時代である
    ともいえるでしょう。
    労働時間を短くするためには、
    本当に必要なことが何なのかを
    仕事をする中で問いかけ、
    見極めなければいけません。
    そのような状況は、自ずと、
    労働そのものの意味も含めて、
    問わなければいけません。
    また、家庭や自分のプライベートが
    尊重されながら、働ける環境を
    作ろうとするならば、
    仕事というものは人生の大部分ではなく、
    自分の人生の一部であると、
    認識する必要に迫られます。
    それは自ずと、人生における仕事の意味を
    考える機会となることでしょう。
    ですから、働き方の改革は
    制度や労働環境だけでなく、
    私たちの意識においても、
    確実に必要なものです。


    さきほど創世記2章の物語に
    私たちは耳を傾けました。
    そこでは人間の創造について描かれています。
    創世記2章は、この物語に登場する人物を
    人類全体を象徴する存在として
    紹介しています。
    労働という観点から読むならば、
    創世記2章は人間について、
    園を耕し、守るようにと、
    神によって園に置かれた存在として、
    描いているといえます。
    旧約聖書が生み出された地域で暮らしていた、
    古代の人々がこの物語を聞いたとき、
    「あれ?」と首をかしげたかもしれません。
    旧約聖書が生み出された古代世界において、
    人間は神々が嫌がる、
    重く、退屈な労働を
    代わりに行う存在として
    理解されていました。
    また、それに加えて、
    神々に食べ物を届け、
    神々を養うのも人間の役目でした。
    つまり、古代世界において、
    人間は神々の奴隷のような立場だと
    理解されていました。
    そのような人間理解が当たり前であった
    古代世界に向かって、創世記は、
    「違う」「そうではない」と宣言しています。
    というのも、人間を創造した後、
    神が食べ物を用意した様子が描かれています。
    その食べ物は、人間たちが労働によって
    得るものではありません。
    神によって、初めから、
    とても良いものとして備えられ、
    何の対価も無しに与えられていました。
    神は、自由にそれらを取って食べて良いと
    人間に許可を与えています。
    ですから、神が人間を
    自分に都合の良い奴隷のように扱って、
    自分の煩わしい仕事を投げ出すために、
    神が人間を造った
    というわけでは決してありません。
    むしろ、神が創造されたこの世界を
    神と共に維持・管理し、
    豊かな命をこの世界において保つために、
    神に必要とされて、
    私たち人間は神によって造られました。[a]


    神が人間を創造した後、
    神はエデンという地域に園を造り、
    そこに人を住まわせました。
    エデンの園と呼ばれるこの園は、
    水が流れ出る豊かな場所として
    描かれています。
    そこには、人間が自由に手に取って
    食べても良い、豊富な果実がありました。
    そして、園の中央には、
    神が人間に命と知恵を与えることを象徴する
    二本の木が生えていました。
    この園で、暮らし、
    そこを耕し、守るように、
    つまり、この園を維持・管理をするようにと、
    人間は招かれています。
    私たち人間がどのような存在であるのかを
    この物語が象徴的に
    伝えようとしているのならば、
    神が創造した良い世界を
    維持し、管理するようにと、
    人間が神から命じられている物語として
    読むことができるでしょう。
    その意味で、生活の糧を手にするためだけに、
    私たちは働いているわけではありません。
    お金やモノのやり取りがなかったとしても、
    私たちの日常的な営みは、
    この世界を耕し、守ることにつながっています。
    ですから、園の管理という象徴を通して、
    この物語は、私たちに問いかけています。
    私たち人間の働きが、
    この世界に命をもたらすものになっているか、
    誰かを生かすものになっているのか、と。
    それは、私たちの労働や、
    日々のあらゆる営みが、
    この世界や共に生きる人たちを
    不必要に傷つけるようなものと
    なってはいないだろうかと、
    問いかけるものでもあるでしょう。


    このように、私たちの労働だけでなく、
    私たちのあらゆる行動や言葉、
    そして、私たちの存在そのものが
    神が造られたこの世界の
    維持や管理につながっていることを
    創世記は私たちに語りかけています。
    ただ、実際には、維持や管理以上のものとして、
    創世記は私たち人間の働きを紹介しています。
    この物語の中で耕すと訳されている単語は、
    「仕える」という基本的な意味を持っています。
    この単語は、礼拝や
    神殿で働く祭司の働きに対して
    用いられることが多い単語です。
    一緒に使われている「守る」という単語も
    神殿で働く祭司たちを
    連想させる言葉遣いです。
    そう考えると、ここで描かれているのは、
    単なる庭園の管理ではありません。
    神に属する聖なるもののために働き、
    それらを維持し、管理し、守る。
    そんな祭司のような役割が
    この世界で生きるすべての人間に
    与えられているという
    メッセージが込められています。
    旧約聖書において、祭司が聖なる場所を
    維持する働きを担っている理由は、
    この世界に無秩序が
    侵入してこないためです。
    神が創造した素晴らしく、良い世界が、
    その良さを保ち続けるために、
    聖なる場所を維持することが
    祭司たちの担った重要な役割でした。
    そんな祭司たちのように、
    私たち人間はこの世界で生きるようにと、
    神から招かれていると、
    創世記の物語は伝えようとしています。
    そう、私たちがこの世界で担う
    どのような仕事も、
    どのような日常的な営みも、
    神が造られた良い世界を
    良いものとして保つための、
    重要な働きなのだと、
    創世記は伝えています。


    ところで、創世記2章の物語は、
    祭司のようなこのような働きを
    人間が担っていることを伝える前に、
    人間を園に住ませたと書いています。
    8節と16節で繰り返し、
    神が人間を園に住ませたことが
    記されているのですが、
    その際、別の単語が用いられています。
    特に特徴的なのは、
    16節で「休ませる」という意味の単語が
    使われていることです。
    園で、人間たちに休みを得させるために、
    神は人間を園に置きました。
    つまり、祭司のような働きを担うために、
    園を耕し、守るために、
    神は人間を園で憩わせ、休ませた、
    と16節は伝えていることになります。
    休めと言われているのか、
    働けと言われているのか、
    何だかよくわかりませんね。
    そのように感じてしまうのには、
    私たちが働くことと休むことを
    完全に正反対の行為だと
    考えてしまっているからなのかもしれません。
    園での生活において、
    それらは対立するのではなく、
    豊かに重なり合い、統合されていました。
    園で休めるということは、
    この世界を良いものとして受け止め、
    その良さや美しさを喜べることだからです。
    何よりも、それを願って、
    神は園に人間を置いています。
    けれども、園の良さや美しさを保ち、
    更にその素晴らしさを味わうために、
    管理や維持が必要です。
    この園全体に溢れる神の恵みを
    喜び、楽しみながら、
    園の維持や管理は行われました。
    労働も休息も、神が造られたこの世界の
    良さを味わい、噛み締める機会として、
    私たちに与えられているのです。


    もちろん、善意を持って、
    全力で私たちが自分たちの仕事に
    取り組んだとしても、
    私たちの働きには
    綻びや不完全さがあることでしょう。
    誰も完璧な人間などいませんので、
    それは当然のことです。
    良かれと思ってやったことが、
    かえって、この世界に
    混乱をもたらしてしまうことだってあります。
    だからこそ、私たちは自分が神のように
    この世界に働きかけるわけではなく、
    あくまでも神の協力者であることを
    自覚する必要があります。
    その意味で、神が園の中央に
    善悪の知識の木を置き、
    その実を食べないようにと命じたのは、
    私たちが自分の理想ばかりを求めて
    自分の知恵のみを振り絞って
    奮闘する必要がないことを
    伝えるためだったのではないでしょうか。
    私たちはこの世界の法則の
    すべてを完全に理解し、
    この世界の知識を
    知り尽くしているわけではありません。
    けれども、神にこそ知恵があります。
    そんな神にこそ信頼を抱きながら、
    この世界で働き続ける必要があることを
    この物語に登場する、
    園の中央にある善悪の知識の木は
    私たちに教えているかのようです。


    それでは、私たちが日々過ごす場所で、
    手入れが必要な場所は
    一体どこなのでしょうか。
    神の知恵が必要な場所、
    命が注がれる必要がある場所は
    私たちの日常のどこにあるのでしょうか。
    天の御国を目指して旅をする、
    私たちにとっての働き方改革はきっと、
    私たちの生きる社会やこの世界を見渡して、
    そんな風に問いかけることから始まります。
    神が造られたこの世界において、
    私たちを取り囲む日常において、
    私たちが神と共にこの世界を維持し、管理し、
    回復を目指すべき場所は
    どこなのだろうか、という問いかけです。
    ある意味で、それはとても欲張りな
    改革に思えるかもしれません。
    だって、創世記が
    私たちに促す働き方改革は、
    傷ついたこの世界を
    少しでも良いものへと
    回復することができる
    という希望を決して捨てずに、
    私たちが日々の働きに
    取り組むことなのですから。
    傷ついた人間同士も、
    争い合い、奪い合う国同士も、
    憎しみ合う民族同士も、
    手を取り合える日が来る。
    そんな大きな夢を見ながら、
    小さな一歩を積み重ね続けていくのが
    私たちのやり方です。
    神に造られたこの大地も、
    そこに広がる様々な命も、
    どれほど傷つき、
    歪んだ形になってしまったように見えても、
    それでも、回復へと向かうことができる。
    どれほど不完全に見えて、
    人間の愚かさや罪深さによって、
    染まり切ってしまっているように見える
    この世界のあらゆる制度も、
    きっと弱さを覚え、
    苦しんでいる人たちのために、
    完成を目指すことができる。
    今からでも遅くない。
    私たちが心に抱くのは、
    そんな前向きで
    欲張りな働き方改革です。
    この世界を造った
    神ご自身がそれを望んでいるから、
    私たち自身もそれを望んで、
    この世界で日々の働きに
    努めることができます。
    どうか、日常の様々な出来事の上に、
    ひとつひとつの事柄の上に、
    回復を願う神への祈りを心に抱きながら、
    神の協力者、神の相棒である
    仲間たちと一緒に、
    みなさんが、これからも信仰の旅路を
    続けていくことができますように。


    [a]そう、それは、きょうの礼拝の初めに開いた、
    パウロがコリント教会に宛てた
    第一の手紙において記されていたように、
    私たちは神の協力者として、
    この世界に関わるように招かれています。

週報より

  • 2025.06.01 週報より抜粋・要約

  • ① 先週のクリーンアップデイにご協力くださり、ありがとうございました。
    今回は礼拝堂の横の部屋を一部整理し、本棚を設置することができました。
    読みやすそうな書籍を設置予定ですので、どうぞご自由にご利用ください。

    ② きょうは礼拝後に賛美歌を歌う会を行います。

    ③ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    礼拝堂を長く使用するために、必要な定期的なメンテナンスです。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの上にある献金袋をご使用ください。
    目標金額は140万円です。

    ④ シャン・グナラトネさん就学支援募金にご協力くださりありがとうございました。
    スリランカ・メソジスト教会の牧師であるニシャンタ先生より依頼を受けた、
    シャン・グナラトネさん(ニシャンタ先生のご子息)の就学支援のための募金は、
    4万1千円集まりました。先週、無事に送金を完了しました。

    ⑤ 次週礼拝後、月例教会役員会を行います。

    ⑥ 7月の第一日曜日(7月6日)に、自宅〜教会間の送迎を試験的に行います。
    将来的に、教会〜自宅間の送迎を定期的に行えるようにと願っています。
    どのような形で実現可能なのかを探るため、7月の最初の日曜日に、
    送迎を希望される方々の自宅〜教会間の送迎を行ってみたいと思います。
    ご利用を希望される方は、牧師までお気軽にお声がけください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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