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三位一体後第15主日

創世記 11:1-9

◆バベルの塔
1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。


使徒言行録 2:1–13


1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

説教

バベルの塔の物語は呪い?それとも祝福?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    旧約聖書の中には、
    物事の起源や存在理由などを
    古代の人々に伝える物語が
    いくつも記されています。
    人間とは一体、何者なのか。
    なぜ服を着ているのか。
    なぜ労働をするのか。
    人々が抱くそういった
    様々な疑問に、
    意味を提供するような物語が
    いくつも発見できます。
    きょう読んだバベルの塔の物語も、
    そのような原因を伝える物語として
    読むことができます。
    なぜ世界には
    たくさんの言葉があるのか。
    ただでさえお互いに理解し合い、
    心を通じ合わせることは難しいのに、
    なぜ人々が違った言葉を話すことを
    神は許しているのだろうか。
    そういった疑問に対して、
    このバベルの塔の物語は、
    世界中に様々な言語がある理由を
    説明しようとしています。


    バベルの塔の物語は、
    人間の傲慢さが
    たくさんの言語を人々が話す
    現在の状況を作り出すきっかけとなった
    と伝える物語として、
    理解されることが多いかと思います。
    この物語は、人々が話す言語は、
    初めは一つであったことが
    確認されることから始まりました。
    彼らはお互いに語り合い、
    天に届く高い塔と町を
    建てることにします。
    その際、「名を上げよう」(4節)と言って、
    彼らは町と塔を建て始めます。
    天にまで届くような高い塔を
    建てることによって
    神のようになりたいという彼らの願いは、
    人間の欲望や傲慢さとして、
    神の目には映りました。
    このような人間の傲慢さに、神は怒り、
    彼らがこれ以上この計画を進めないように、
    人間の言葉を混乱させ、
    お互いに理解し合えないようにしました。
    そのため、様々な言語が
    この世界にはあります。
    きっとこのような説明が、
    バベルの塔の物語について
    なされることが多いと思います。


    けれども、この世界に
    様々な言語があるのは、
    人間の罪や過ちの結果なのでしょうか。
    これまでの創世記の物語は、
    人々が世界に広がっていくことや、
    多様な人々がいることを
    喜んでいます。
    特に、この物語の直前には、
    ノアの子孫たちが増えて、
    世界中に散って行き、
    それぞれの民族の先祖となったことが
    記録されています。
    多様性に満ちた人々、
    多様性に満ちた動植物が
    この世界に広がっていくことを
    神は喜び、そんな世界を祝福している。
    これが、創世記が
    これまで強調してきたことです。
    それならば、
    言語がたくさんあることって、
    まさに神が願う
    多様性ではないのでしょうか。
    一つ一つの言語が持つ、
    ものの考え方や世界観、
    言葉の作り方や
    伝え方のニュアンスは、
    異なります。
    それはまさに、多様性の表れです。
    でも、バベルの塔の物語は、
    創世記がこれまで伝えてきたこととは、
    正反対のことを
    伝えようとしているのでしょうか。
    多様な言語がこの世界にあることは、
    傲慢になった人間の罪の結果、
    それに対する神の裁きや呪いの結果だと
    伝えているのでしょうか。


    バベルの塔の物語は、
    バビロニア帝国のことを取り扱っている
    物語であると考えられています。
    バベルという音が、
    バビロニアの都バビロンと似ていることや、
    建てられる塔がバビロニアの
    ジッグラトと呼ばれる
    階段状の建物のことを指していると、
    考えられているためです。
    ジッグラトは天と地をつなぐ
    階段を支えるための建物であったと
    考えられています。
    つまり、バビロニアの神々が
    天から降ってきて、
    ジッグラトの隣に建てられていた
    神殿に訪れるために、
    ジッグラトは建てられた
    と考えられています。
    ということは、バベルの塔が
    バビロニアのジッグラトを
    暗に示していると考えて
    この物語を読み直すならば、
    天に届く塔を建てるという表現は、
    何も人間の傲慢さの結果
    ではないことに気づきます。
    むしろ、天に届く塔が建てられて、
    神が天から降ってくるという表現は、
    とても自然な表現であったといえます。
    そうであるならば、
    私たちはこの物語を
    どのように読み直せば良いのでしょうか。


    この物語に登場する人々は、
    散らされることを恐れています。
    彼らの願いは名を上げることです。
    それは有名になる、
    という意味ではありませんでした。
    自分が死んだ後も、
    名前を覚えておいてもらうことが
    当時の人々にとって
    とても大切なことでした。
    自分の名前を覚えておいてもらうためには、
    たくさんの子孫が必要です。
    そのためには、子孫たちが
    世界中に散って行くことなく、
    一つの場所に留まることが
    重要なことでした。
    ですから、彼らは自分たちが
    世界中に散らされないため、
    一つであるため、
    そして同じであるための
    試みを続けました。
    彼らにとっては、
    散らされないことこそが祝福でした。
    そのために同じであり、
    一つであることを保つことこそが
    彼らにとって必要なことでした。
    同じであること、
    ひとつであることが
    祝福の源でした。
    お互いが違っていて、
    散らされてしまうことこそ、
    危険であり、避けるべきことでした。
    そういったことを防ぐために、
    彼らは町を建て、
    そして高い塔を建てました。


    塔や町を建てるような
    決定を下すことを
    していたことを考えると、
    ここに登場する人々が
    特に権力者たちのように
    思えてきます。
    自分たちが世界中に
    散って行かないために、
    同じ言葉、同じ考えを求める。
    それが祝福の形だと
    彼らは規定しました。
    けれども、それは本当に
    祝福された形なのでしょうか。
    同じ言葉を話し、
    同じ考えを持ち、
    同じような見た目といった、
    同じ背景を誰もがもっている、
    そんな社会を作っていく。
    本当に、それで
    人はひとつとされるのでしょうか。
    一見、一体感のようなものは、
    あるように思えるかもしれません。
    けれども、同じ言葉しか
    聞こえてこないというのは、
    結局のところ、
    その背後で声を上げることが
    できない人たちがいるからでしょう。
    そして、言葉にしたくても、
    言葉にできない人たちがいるからです。
    そう考えると、同じとか、
    一つというものの背後には、
    沈黙や抑圧がある可能性があります。
    権力や何らかの力を持つ人たちにとって、
    社会の多数派の人たちにとって、
    自分たちが同意できることに基づいて、
    「同じ」とか「一つ」と言えるのならば、
    それは心地よく、
    祝福の中にあることなのでしょう。
    けれども、その背後で
    苦しんでいる人たちにとっては、
    同じことや、一つであることは、
    抑圧の道具であり、呪いです。


    だから、神は
    それがすべての人々にとって、
    祝福だとは思えませんでした。
    神が願った世界のあり方は、
    一つであるとか、
    同じであることを誇ることではなく、
    彩りが豊かな、多様性に満ちた状態でした。
    だから神は、
    一つであり、同じであることを目指した
    バベルの塔の物語において、
    この世界に手を伸ばし、
    言語を多様なものにしました。
    どちらが本当に祝福された世界だと思う?
    神がそんな風に、
    私たちに問いかけているかのようです。


    創世記はこの時の出来事に基づいて、
    「主が全地の言語を
    混乱させたから」(9節)、
    この町はバベルと呼ばれた、
    と町の名前についての説明をしています。
    混乱と訳されているヘブライ語バラルと、
    町の名前バベルで言葉遊びをして、
    創世記は町の名前について説明をしています。
    ここで混乱と訳されている
    バラルという単語ですが、
    混ぜるという訳し方もできます。
    バラルを混乱ではなく、混ぜると訳すならば、
    色々な言語が混ぜ合わさった、
    多様な音が豊かに響き渡る世界を
    表現しているように聞こえてきます。
    このように、このバラルという単語は、
    ふたつの側面を表現できる単語です。
    片や、言語が
    たくさんあることによって生じた、
    混乱した世界のあり方を。
    片や、言語が
    たくさんあり、混ぜ合わさった、
    色々な音や考えが行き交う世界のあり方を、
    この単語は表現しています。
    それは何だか、同じものを見ているのに、
    立場が違うことによって、
    正反対の見方をしているかのようです。
    同じ言葉、同じ考えの方が
    都合が良く、また心地良いと思う人々にとって、
    言語がたくさんあり、考え方が多様な世界は、
    混乱そのものでしょう。
    同じ言葉、同じ考えに染まった世界に、
    居心地の悪さや、苦しさを感じる人々にとって、
    言語がたくさんあり、
    色々な考え方が認められる世界は、
    彩り豊かさに、様々な個性が
    混ざり合っている世界です。
    言語が増え、多様になることは、
    呪いなのか、それとも祝福なのか。
    そんなふたつの違った見え方を
    このバラルという単語の持つ響きは、
    私たちに教えてくれます。


    このように、バベルの塔の物語において、
    一つであることと、多様であることが
    ぶつかり合っている音が聞こえてきます。
    一つであることと、多様であることの
    どちらが祝福であるのか。
    このように意見が分かれる様子は、
    何だか、現代社会を
    見ているような錯覚に陥ります。
    多様な価値観があっては、
    混乱や摩擦が起こり
    問題ばかりが起こるからといった理由で、
    多様性よりも、一つであることが
    しばしば強調されてしまっています。
    でも、私たちが思う以上に、
    私たち一人ひとりは
    お互いに素敵な違いを持っている、
    多様性豊かな存在です。
    だから、そういった豊かさを押し殺して、
    国家や多数派が規定するような
    存在になることなど、
    本来できるはずもありません。
    やはり、人間存在の多様性を無視することは、
    人間の命の尊厳を押し殺すことです。
    神が願った祝福とは、正反対の道です。
    本来的に、多様であることではなく、
    ひとつであることを押し付けられることにこそ、
    人間存在の混乱があるからです。
    だからこそ、バベルの塔の物語の結末は、
    神の祝福と希望に満ちたものといえます。
    たくさんの言葉が生まれ、
    たくさんの表現や考えがゆるされ、
    多様な人々は世界に広がり、
    お互いの違いを喜ぶ道が
    目の前に開かれているのですから。


    もちろん、多様な人々が
    お互いの違いゆえに
    ぶつかり合ってしまうことは、
    現実的な問題です。
    多様さゆえに、お互いの違いに
    寛容になれないことがあるのも、
    私たちが常に直面する現実です。
    言葉の違い、
    考え方の違い、
    文化の違い、
    性格の違いによって、
    なかなかわかり合えないことがあるのも
    また事実です。
    バベルの塔の物語は、
    そういったことに
    解決の光は与えていません。
    けれども、多様性を喜び、
    誰の存在も決して諦めなかった神は、
    私たちが抱えるそういった問題のうちに、
    歩むべき道を示してくださる方です。
    きょうは新約聖書から、
    使徒言行録の2章を読みました。
    そう、イエスさまの弟子たちに、
    神の聖なる霊が与えられた日の
    出来事を描いている物語です。
    聖霊は、弟子たちだけでなく、
    私たち一人ひとりにも与えられ、
    私たちと共にいてくださる神です。
    そして、お互いに異なる私たち一人ひとりを
    平和のうちに結び合わせる方です。
    ひとつの考え、価値観、言葉によって、
    神は私たちを結び合わせようとはしません。
    私たち一人ひとりの違いを
    大切に、尊重しながら、
    神は私たちが共に生きることができる道を
    備えてくださいました。
    そう、見た目でも、国籍でも、
    性別でも、社会的な立場でもなく、
    聖霊によって結び合わせることによって、
    それぞれの違いが
    大切にされると同時に、
    ひとつであることができる道を
    神は備えてくださいました。
    私たちは、お互いの違いが尊重され、
    お互いが多様な存在であることを喜びつつ、
    平和のうちに共に歩む道を
    一緒に模索することができます。
    聖霊によって結ばれた
    教会の交わりにおいて、
    神はそれができると、
    私たちの背中を押してくださっています。
    ですから、私たちはこの場所で、
    聖霊によって結ばれ、
    喜びと平和のうちに共に生きる道を
    模索し、学び続けていきましょう。
    それは、今この場所に
    いる人たちとだけでなく、
    ここにいない人たちと
    どうやって手を取り合って
    歩んでいけるかも含めてです。

週報より

  • 2025.09.28 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝後に月報『モレノ』編集会をおこないます。
    モレノ編集チームのみなさま、よろしくお願いいたします。

    ② 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    外壁塗装に加えて、付属館2階のベランダの補修が必要になりました。
    そのため、目標金額が5万円増の145万円となりました。
    8月31日時点で、目標金額まで残りおよそ68万円です。
    ご協力いただける方は、受付正面の壁にかけてある献金袋をご使用ください。

    ③ 『モレノ』特別号へのご協力のお願い
    4月1日に小山教会は、宇都宮伝道所正式発足から数えて50年を迎えました。
    その記念として、『モレノ』特別号を年内に発行予定です。
    特別号編集チームは、小山教会での思い出や、これからの教会への思いを
    綴った原稿を募集しています(400〜800文字程度、締切は10月末)。
    たくさんの方のご寄稿をお待ちしています。

    ③ あすは神学校の研修会と教授会がナザレン神学校で開催されます。
    基嗣牧師が午後に、AIと教会についての発表を担当します。

    ④ 次の日曜日、10月5日は教会の50周年のお祝いを礼拝後に予定しています。
    みなさまどうぞご予定ください。

    ⑤ 『詩篇 四訳対照』の購入を希望される方は、牧師までお知らせください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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