小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  笑い声が響く世界であるように

降誕節第1主日

出エジプト記 1:15–22

◆男児殺害の命令
15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。
16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」
17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」
19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。民は数を増し、甚だ強くなった。
21 助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。
◆モーセの生い立ち
22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」


マタイによる福音書 2:13–18

◆エジプトに避難する
13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
◆ヘロデ、子供を皆殺しにする
16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから。」

説教

笑い声が響く世界であるように

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    赤ちゃんが生まれることは、
    いつの時代も喜ばしいことです。
    けれども、イエスさまの誕生は、
    その当時のユダヤの王さまである、
    ヘロデには喜ばれませんでした。
    彼は自分の地位が失われることを
    人一倍恐れていた人でした。
    ですから、東の方からやって来た
    占星術の博士たちから、
    新しい王さまが生まれたと聞いたとき、
    彼はとても不安になりました。
    この知らせはヘロデにとって、
    自分の地位がやがて奪われることを
    意味したからです。
    そのため、彼は
    ユダヤの王として生まれたという
    幼子を探し出して殺そうとしました。


    ヘロデの取った手段は
    とても残酷なものでした。
    彼は新しい王が生まれたとされている、
    ベツレヘムとその周辺から
    2歳未満の男の子を探し出します。
    そして、自分の兵に命じて、
    その子たちを一人残らず
    殺してしまいました。
    マタイによる福音書以外に、
    このヘロデによる幼児虐殺の
    出来事についての記録は
    残されていません。
    そのため、この出来事が
    実際に起こったのかどうかは
    わかりません。
    けれども、ヘロデがこのようなことを
    しかねない王であることは、
    否定できません。
    彼は自分の地位を守るために、
    自分の妻たちや、子どもたちの命まで
    奪った残虐な王として
    知られているからです。
    そんなヘロデの行動が
    強く印象に残ったため、
    ベツレヘムという小さな村での
    幼子虐殺という出来事が
    歴史家たちから軽く見られてしまった
    可能性もあるでしょう。
    歴史家たちから見逃されてしまうほど、
    幼子虐殺という行動が
    ヘロデにとって自然なことと思えたならば、
    恐ろしいことです。


    いずれにせよ、
    イエスさまの命を狙うヘロデによって、
    その日、幼子たちの命が奪われたと、
    マタイは記録しています。
    愛する子どもたちを失ったことで、
    その親たちは泣き、叫んでいます。
    マタイは預言者エレミヤの言葉を用いて、
    彼らが悲しむその様子を描いています。
    本来ならば、
    生まれてきた子どもたちを
    歓迎する両親や親戚、
    近所の人や友人たちの声で、
    家の中は賑わっていたはずです。
    近所中にその喜ばしい声は
    響き渡っていたはずです。
    そして、その喜ばしい声に紛れて、
    泣き声を上げていたのは本来、
    生まれたばかりの
    子どもたちであったはずです。
    けれども、喜びに溢れた笑い声も、
    子どもたちの泣き声も
    聞こえてきません。
    聞こえてくるのは、
    親たちの悲しむ声。
    神よ、なぜですかと涙を流して、叫ぶ声。
    そして、行き場のない怒りを
    必死で押し殺すようなうめき声でした。


    この時、イエスさまの家族は
    このような泣き声やうめき声を
    上げる必要はありませんでした。
    イエスさまの命が守られるように、
    神は天使を用いて、
    エジプトへ逃げるようにと
    彼らに伝えました。
    そのため、ヨセフやマリアは
    イエスさまを連れて、
    逃げることができました。
    こうして、彼らはヘロデのもとから逃れ、
    イエスさまの命は守られましたが、
    果たしてこれで物語は
    ハッピーエンドなのでしょうか。
    そんなことありませんね。
    だって、何の罪もない子どもたちが
    殺されてしまったのですから。


    マタイはイエスさまが
    エジプトに行くことと、
    幼子たちの命が奪われたことを
    預言者の言葉と結び付けて
    説明しています。
    まるで、旧約聖書の時代に
    預言者たちが語ったことが
    この時、実現したというような口ぶりです。
    そうであるならば、
    幼子たちの命が奪われることは、
    イエスさまの誕生物語において、
    必然であったのでしょうか。
    救い主であるイエスさまを
    私たちのもとに送るという
    神の計画の中には、
    このような悲惨な出来事が
    含まれていたというのでしょうか。
    もちろん、マタイはそのようなつもりで、
    預言者の言葉を
    紹介したわけではありません。
    エジプトに行くことについて、
    マタイは、預言者の言葉が
    「実現するため」であったと書いています。
    預言者を通して語られていた、
    神の計画が実現するために、
    イエスさまは家族と一緒に
    エジプトへ行ったと、
    マタイは受け止めていました。
    けれども、ヘロデによって幼子たちが
    殺されることについては違います。
    マタイは預言者エレミヤの言葉が
    「実現するため」とは明言していません。
    とても細かない違いですが、
    マタイは預言者の言葉が
    単に「実現した」とだけ書いています。
    マタイは、幼子が虐殺される
    この出来事に関しては、
    あくまでも報告に留めています。
    そこに、神の積極的な介入を
    マタイは認めていません。
    あくまでも、預言者エレミヤが
    語っていたような悲惨な出来事が
    この時、現実に起こってしまった。
    そのような口ぶりです。
    エレミヤの語った言葉のような現実が、
    あの時代のベツレヘムで
    起こってしまったのは、
    神がそれを願ったからではありません。
    ヘロデの行動の結果、
    この悲惨な出来事は
    起こってしまいました。
    人の命を奪ってまで、
    自分の地位を守ろうとする、
    ヘロデの罪こそがその原因でした。
    亡くなった子どもたちのために、
    激しく泣く両親の悲痛な叫びが、
    ヘロデの熱意によって、
    現実のものとなってしまいました。


    旧約聖書の時代に、
    預言者たちによって語られた言葉を
    キリスト教会はイエス・キリストを
    指し示す言葉として
    受け止めてきました。
    けれども、預言者たちが語ったのは、
    来たるべき救い主への
    希望を伝える言葉だけでは
    ありませんでした。
    むしろ、彼らが語ったことの多くは、
    イスラエルの社会の中に
    正義や平和を求めるような言葉でした。
    また、彼らは、
    礼拝の改革を求めて、
    神を心から愛するようにと
    人々に訴えました。
    このままではいけないと、
    預言者たちは何度も語りかけながら、
    王国の滅亡という決して望まない未来を
    人々の前に提示することもありました。
    人間の罪や過ちによって、
    そんな望まない未来へと
    向かっていってしまう。
    ある意味で、預言者たちの言葉を
    実現してしまうのは、
    人間の罪や過ちである
    側面もあるのでしょう。


    ヘロデの行動がまさにそうでした。
    ヘロデの行動は、
    かつてのイスラエルの悲しみを
    また現実のものにしてしまいました。
    預言者エレミヤにとって、
    それは、帝国の暴力によって
    自分たちの国が踏みにじられ、
    家族や仲間たちが殺されたり、
    外国へと連れて行かれてしまうことでした。
    子どもを失った母親の悲しみと
    重ね合わせながら、
    仲間や家族を失う悲しみを
    エレミヤはここで伝えています。
    そんな預言者エレミヤの言葉が、
    ヘロデの行動を通して、
    また現実のものとなってしまいました。
    時代を越えて、ベツレヘムで
    あの悲痛な叫び声が響き渡る
    ことになってしまいました。


    この出来事のように、
    人間の罪や過ちが、
    この世界に悲しみの声を広げていくことは、
    今も変わらずに起こり続けています。
    イエスさまが来なかったとしても、
    預言者エレミヤの言葉は、
    悲しいことに、何度も何度も、
    この世界の現実となっています。
    そう、現代においてもです。
    この一年を振り返るだけでも、
    色々なことがありました。
    戦争や紛争は終わりません。
    特に、イスラエルとハマスの間では
    停戦が合意された後も、
    イスラエル軍が空爆を続けています。
    子どもたちをはじめ、
    愛する人たちを失った泣き声や叫び声は、
    今もその地に響き続けています。
    いつになれば、人は暴力に頼らずに、
    平和のために手を取り合えるのでしょうか。
    もちろん、悲しみの声が響き、
    涙が溢れているのは、
    戦争や紛争がある場所だけではありません。
    私たちの生きる社会には、
    様々な形での暴力が存在するからです。
    「普通」や「当たり前」を押し付けられ、
    どれほど多くの人が
    息苦しさを感じているでしょうか。
    どれほど多くの人が
    のけ者にされ、居場所がないと
    感じてしまっていることでしょうか。
    きっと、知られていない
    悲しみの方がこの世界には多いのでしょう。


    クリスマスの物語は、
    イエスさまの誕生の後に、
    このような悲しみの物語を
    紹介することを通して、
    私たちのことを
    単に喜ばせてはくれません。
    むしろ、この世界に
    悲しむ声や涙に溢れた叫び声が
    溢れてしまっている現実を
    思い起こさせます。
    それは、私たちが抱える悲しみや、
    この世界にあふれる涙の原因となっている、
    人間の罪深さを単に
    思い起こさせるためではありません。
    私たちの抱える叫び声を
    更に大きなものにするために、
    この出来事が紹介されている
    わけでもありません。
    そうではなく、私たちが抱える
    この悲しみのただ中に、
    救い主であるイエスさまが来たことを
    マタイは伝えようとしています。
    クリスマスの物語において、
    まさに初めに、
    私たちの悲しみや嘆きの声の
    大きな原因となる人間の罪に
    イエスさまが巻き込まれました。
    この世界は、力のない幼子であった
    神の子イエスさまの命さえも
    奪おうとしてくるような世界であることを
    この物語は私たちに突きつけます。
    そんな人間の罪や悪が
    大きな影響を与え続けている世界です。
    でも、同時に、だからこそ、
    イエスさまは来たことを
    私たちに思い起こさせます。
    イエスさまが何のために、
    私たちのもとに来てくださったのか。
    何のために、イエスさまを
    私たちのもとに送ることによって、
    神が私たちと共にいてくださるのか。
    それは、悲しみを引き起こしてしまう、
    私たち人間の罪を赦すために他なりません。
    どうしようもないほど、
    罪の支配とその影響の下で
    生きてしまう私たちを
    神はイエスさまを通して、
    取り戻そうとしてくださっています。
    私たちを神の愛の下で生きる、
    神の子とするために、
    イエスさまは来てくださいました。
    それは、私たちの日常を
    更に悲しみや嘆きや涙で
    溢れた日々にするためではありません。
    私たちの日常に、主キリストにあって、
    神が喜びと感謝と笑顔を与えるためです。


    クリスマスを迎えた後だからこそ、
    私たちはより一層
    強く願いたいと思います。
    私たちの日常も、
    私たちの生きるこの世界も、
    人間の罪や過ちによって、
    たくさん傷つき、損なわれ、歪みを持ち、
    悲しみに溢れているかもしれません。
    でも、そのようなところにこそ、
    イエスさまが来てくださり、
    神が共に居てくださっています。
    それこそが、私たちにとっての
    大きな希望であり、慰めです。
    だって、私たちが涙を流し、
    悲しむ場所が広がっていく以上に、
    主キリストにあって、
    癒やしや喜びや平和が
    広がっていくのですから。
    笑い声が主イエスにあって、
    与えられていくのですから。
    そんな希望を胸に抱きながら、
    私たちはこれからも
    信仰の旅路を歩んでいきましょう。
    私たちの日常が、そしてこの世界が
    平和の主であるキリストにある愛の下で、
    少しでも笑い声を
    取り戻していくことを願いながら。

週報より

  • 2025.12.28 週報より抜粋・要約

  • ① クリスマスおめでとうございます!
    主イエスが今もわたしたちと共にいてくださることを感謝し、
    主がふたたび来られることをわたしたちは待ち望みます。
    きょうは礼拝後に、クリスマス祝会をします。
    有志の方たちによる持ち寄りの食事会と出し物を予定しています。
    皆さまどうぞごいっしょにお過ごしください。

    ② 24日(水)19:30からは、イヴの祈りを開催します。
    テゼの曲を中心に賛美と祈りの時を持つ予定です。

    ③ クリスマス献金にご協力ください。
    牧師へのクリスマス手当、キリスト教関連団体への寄付などに用います。
    受付テーブルの献金袋をご利用ください。

    ④ 2026年の教会カレンダーをお持ち帰りください。
    今年も2種類のカレンダーを選びました。お好きな方をお持ち帰りください。
    教会から皆さまへのクリスマス・プレゼントです。

    ⑤ 来週の日曜日は、2025年最後の礼拝です。
    良いときも悪いときもわたしたちの信仰の旅路を導いてくださった
    神に感謝をしつつ、共に礼拝するひとときを持ちましょう。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像