小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  希望なき場所に訪れる友

降誕節第3主日

ヨブ記 2:11–13


11 さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。
12 遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。
13 彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。


ヨハネによる福音書 11:1–16

◆ラザロの死
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

説教

希望なき場所に訪れる友

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    福音書の中で紹介されている、
    イエスさまについての物語を読んでいると、
    度々、「え、何で?」と声を上げたくなる
    出来事が記錄されています。
    さきほど読んだ
    ヨハネによる福音書に
    記錄されている物語は、
    まさに「何で?」と
    声を上げたくなる
    物語ではないでしょうか。
    イエスさまには、
    ユダヤの都エルサレムから
    東へ3kmほど離れた場所にあった、
    ベタニアという村に
    親しい友人たちがいました。
    マリアとマルタ、そしてラザロという、
    3人のきょうだいたちでした。
    ある時、イエスさまは
    ラザロが病気である
    という知らせを受けます。
    この時、イエスさまがいたのは、
    ベタニアから東におよそ30km離れた、
    ペレアという地域だったと考えられます。
    ヨルダン川の東側の地域です。
    ということは、近所に住む人に、
    「最近ちょっと身体の調子が悪くてね」と
    伝えるのとは違いますね。
    使いの人が1日かけて移動して、
    わざわざイエスさまに
    ラザロが病気であることを
    伝えに来たわけですから。
    そこまでして、イエスさまに
    ラザロの病気について
    伝える必要があったということは、
    ラザロの病状が良くないことを
    意味したのでしょう。
    ただ、だから、
    ラザロに会いに来てくれとか、
    治して欲しいといったことを
    使いの人は、イエスさまに
    伝えることはありませんでした。
    でも、わざわざ使いの人を寄こしてまで、
    ラザロが病気である知らせを
    マリアとマルタは、
    イエスさまに伝えています。
    ですから、きっと、
    彼女たちはイエスさまが
    何らかの行動を起こすことを
    期待していたと思います。
    たくさんの人の病気を
    癒やしているイエスさまなら、
    ラザロを治してくれるかもしれない。
    そんな期待もあったかもしれません。
    でも、この知らせを受け取った
    イエスさまの反応はというと、
    彼女たちの期待に沿うものでは
    ありませんでした。


    イエスさまは言います。
    「この病気は死で
    終わるものではない。」(4節)
    それを聞いて、使いの人も、
    一緒にいたイエスさまの弟子たちも
    安心したと思います。
    実際、イエスさまは
    ラザロのいるベタニアへ
    すぐに旅立つこともしないで、
    同じところにとどまったままでした。
    ですから、一緒にいた弟子たちは、
    ラザロは大丈夫なのだろうと
    考えたと思います。
    でも、その2日後に、イエスさまは
    弟子たちにユダヤへ行って、
    ラザロのもとへ行くと言い始めます。
    イエスさまがそのように思い立った理由を
    弟子たちが探ってみると、
    イエスさまは思いもよらぬことを
    口にしました。
    「ラザロは死んだのだ」(15節)。
    弟子たちにとっては、
    意味がわかりません。
    ラザロの病気はてっきり
    治ったのかと思っていたのですから。
    でも、治るどころか、
    もう息を引き取った後だったなんて。
    だったら、イエスさまの
    ここ数日の行動の理由は
    一体何だったのでしょうか。
    親しい友であるラザロが
    病気だという知らせを受けたのに、
    イエスさまはすぐに
    ラザロに会いに行こうとしませんでした。
    「この病気は死で
    終わるものではない」なんて言ったのに、
    その通りにはなりませんし、
    ラザロは死んでしまいました。
    イエスさまのいた場所から
    ラザロの暮らすベタニアまで、
    丸1日歩けば到着することができます。
    ですので、近くはないけれども、
    行こうと思えばすぐに行ける距離に
    イエスさまはいました。
    それなのに、なぜイエスさまは
    すぐにラザロのもとへ
    旅立たなかったのでしょうか。
    そして、最終的には
    ベタニアへ行くことにしたのに、
    なぜその決断を2日も
    遅らせたのでしょうか。
    イエスさまのこの不可解な行動に、
    弟子たちも、この物語を読む私たちも
    混乱してしまいます。


    きょうは開きませんでしたが、
    ラザロがいたベタニアに
    イエスさまと弟子たちが到着した時には、
    ラザロは既に亡くなっていました。
    彼の身体がお墓に葬られてから
    4日が既に過ぎていました。
    この当時のユダヤでは、
    亡くなった人の身体は、
    すぐにお墓へ葬られていました。
    ですから、葬られてから4日というのは、
    ラザロが息を引き取ってから
    4日が経っていたということを
    意味していました。
    イエスさまがいた場所からベタニアまで、
    丸1日かかる道のりでした。
    そして、ラザロが病気であるという
    知らせを聞いてから、
    イエスさまは同じ場所に2日間
    とどまっていました。
    イエスさまのもとに知らせを届ける人が
    イエスさまのもとにやって来るのにも、
    1日が必要でした。
    ですから、ヨハネが紹介する
    この物語を参考に計算してみると、
    ラザロが亡くなった時期を
    ある程度予測することができます。
    ラザロが息を引き取った時期は、
    使いの人がベタニアを旅立った
    その日のうちのことだったのでしょう。
    ということは、イエスさまが
    ラザロが病気である知らせを聞いた時、
    ラザロは既に亡くなっていた可能性が
    高いといえます。
    そのため、たとえイエスさまが
    知らせを受けてすぐさま旅立ち、
    ラザロのもとへ向かったとしても、
    ラザロが葬られてから2日経った後に、
    イエスさまはベタニアに
    到着したことになります。


    ということは、ラザロが病気である
    という知らせを聞いた時、
    ラザロが既に亡くなったことを
    イエスさまは知っていました。
    だから、イエスさまは
    ベタニアへ行くことを
    急がなかったのでしょうか。
    この物語は、病気で亡くなったラザロを
    イエスさまが生き返らせて終わります。
    ラザロの知らせを聞いたとき、
    イエスさまはすぐさま
    「この病気は死で
    終わるものではない」と語りました。
    そのため、ラザロのもとへ行って、
    彼を生き返らせて、
    彼に命を与えるという計画が
    イエスさまの心のうちにあったのでしょう。
    でも、それなのになぜイエスさまは、
    すぐさまラザロを失って悲しむ
    マリアやマルタのもとへ出向くことを
    選ばなかったのでしょうか。
    なぜすぐさま
    ラザロを復活させる道ではなく、
    2日も遅くやって来て、
    亡くなったラザロを4日間も墓の中に
    閉じ込める道を選んだのでしょうか。


    それは、ラザロの家族や友人たち、
    またベタニアの村の人たちが
    ラザロの死をきちんと
    受け止める時間を
    作るためだったのではないでしょうか。
    ユダヤ文化では、亡くなってすぐに、
    できればその日のうちに葬り、
    墓へ亡き骸をおさめました。
    ですから、お墓に葬る前に、
    家族や友人たちが
    亡くなったラザロの身体のそばで
    過ごす時間は決して長くはありません。
    本当に死を実感する瞬間は、
    やはりお墓にその亡き骸を
    おさめた後だったと思います。
    いいえ、大切な人の死を実感する期間は、
    圧倒的に、葬りを終えた後の方が
    長いはずです。
    イエスさまは、マルタやマリア、
    ラザロの友人たちやベタニアの人たちが
    ラザロの死を悲しむ時間を
    奪いたくなかったのかもしれません。
    亡くなった直後に、生き返る。
    それは、確かに、それまでの悲しみが
    吹き飛んでいくような
    喜ばしい瞬間だと思います。
    でも、私たちの人生において、
    死は常に傍らにあるもののはずです。
    人生百年時代と言われていても、
    依然として人類は死を克服していませんし、
    死は突然、私たちのもとにやって来るからです。
    ですから、死をないものとして
    扱うことはできません。
    だからこそ、ラザロの死を経験した人々が、
    きちんとその死に向き合う時間こそ
    大切なのだとイエスさまは
    考えたのかもしれません。
    共に生きた人たちがそばにいない。
    そんな心に抱く自然な悲しみを
    受け止める時間が必要でした。
    そして、その現実を悲しみつつも、
    また、愛する人が共に
    生きてくれたことを感謝する。
    誰かの死を経験した時、
    そんな時間を
    過ごすことにもなるはずです。
    イエスさまはそんな時間を
    マリアやマルタ、そしてベタニアの人たちから
    奪いたくなかったのではないでしょうか。


    このように、イエスさまが出発することを
    2日間遅らせることによって、
    人間誰もが逃れることができない、
    死を突きつけられる期間を
    イエスさまは延ばしたといえます。
    ですから、イエスさまのその決断は、
    ある意味では残酷なものです。
    一日経つごとに、
    誰も死には打ち勝てないという現実を
    突きつけられるのですから。
    この現実は決して覆らず、
    悲しみは決して終わらないことを
    身をもって知らなければ
    ならないのですから。
    でも、そんな死に対する恐れや、
    死の前に対する無力感を味わったからこそ、
    ラザロの復活により
    大きな喜びと慰めを
    マリアやマルタは見出すことが
    できたと思います。
    全くもって希望を見出すことが出来ない。
    病気によってラザロを失ってしまった。
    この物語にとって、
    ベタニアは、死という圧倒的に希望がなく、
    悲しみや絶望にあふれている場所です。
    でも、そんな場所に
    イエスさまが復活の命を携えて、
    訪れてくださったことを
    ヨハネは伝えています。
    その際、イエスさまはラザロにとって、
    またマリアやマルタにとって、
    彼らを心から愛する友として、
    ベタニアへと向かっています。
    ラザロの死をマルタやマリアと
    一緒に悲しむ、彼女たちの友として、
    イエスさまはベタニアにたどり着きました。
    そして、命を失ったラザロに、
    復活の命を与える友として、
    イエスさまは彼をよみがえらせます。


    このように、イエスさまは
    命を失ったラザロや
    ラザロの死を悲しんでいた
    マリアやマルタを友として、
    大切にされた方でした。
    もちろん、イエスさまは、
    死を前に希望を失っていた
    彼らに対してのみ、
    友であったわけではありません。
    イエスさまは、罪人と呼ばれて、
    周囲から蔑まれ、
    白い目で見られていた人たちの、
    社会でのけ者にされている人たちの
    友となりました。
    日々の生活の中で
    命の豊かさを見いだせない、
    そんな彼らを温かく受け止め、
    彼らの友となりました。
    そんなイエスさまは、文字通り、
    すべての人の友となるために、
    私たちのもとに来てくださいました。
    それは、私たちにとって、
    大きな驚きです。
    だって、神の子であるイエスさまが、
    私たち一人ひとりの友と
    なってくださっているのですから。


    ラザロの死が
    圧倒的に支配している場所に、
    命をもたらすために
    イエスさまが訪れてくださったように、
    イエスさまは私たちが
    希望を失う場所に訪れ、
    共にいてくださる友です。
    イエスさまは私たちにとって、
    どんなに希望のない場所であっても、
    決して私たちのことを見捨てずに
    一緒にいてくださる友です。
    それは、私たちがこの地上で経験する、
    あらゆる苦しみや悲しみにおいても、
    そして死の瞬間においても、
    共にいてくださることを意味します。
    イエスさまは、私たちといつも一緒にいて、
    希望のない場所でこそ、
    希望を手渡してくださっている友です。
    天の御国に生きる希望と
    復活の命への望みを
    いつも私たちのもとに
    届けてくださっている友です。
    そう、ラザロに命を与えたように。
    私たちに命を与えてくださる友です。
    そんなかけがえのない友として、
    イエスさまがいつもそばにいて、
    私たちの生涯の終わりまで、
    共に歩んでくださるというのです。
    それは何と喜ばしいことでしょうか。


    でも、それはこの事実を知る、
    私たちだけの特権ではありませんね。
    だって、イエスさまは
    すべての人の友なのですから。
    だからきっと、私たちを通して、
    イエスさまは私たちの友人たちと
    一緒にいてくださる方です。
    そして、何よりも、
    私たちの友人たちを通して、
    教会に集う仲間たちを通して、
    イエスさまは一緒にいてくださる方です。
    きょうは旧約聖書から、
    ヨブ記という文書を開いて読みました。
    ヨブ記に登場する、ヨブという人は、
    すべてを失い、絶望していました。
    そんな悲しみ、失望するヨブに、
    3人の友人たちがそばに居続けたことを
    ヨブ記は描いています。
    でも、友人たちはヨブに
    何も話すことができませんでした。
    ヨブの経験した悲しみの前に、
    彼らは言葉を失いました。
    私たちだって、同じように、
    誰かの悲しみの前に言葉を失います。
    一緒にいることしかできません。
    でも、きっと、
    それでも良いのだと思います。
    だって、私たちと一緒に、
    イエスさまがいてくださるからです。
    かけがえのない友として、
    イエスさまは悲しみ、苦しむ人と
    一緒にいてくださっているのですから。
    そしてイエスさまこそが、
    希望のないところに、
    復活の希望を
    もたらしてくださるのですから。
    私たちといつも
    一緒にいてくださるイエス・キリストは、
    希望のない場所に希望をもたらすため、
    死にあふれる場所に、命をもたらすために、
    私たちのもとを訪れてくださった、
    私たちにとっての友です。
    イエス・キリスト。
    イエスさまこそ、
    私たちと生涯を共にしてくださる、
    私たちの永遠の友、
    そしてかけがえのない友です。

週報より

  • 2026.01.11 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後にもちつきを予定しています。
    みなさまどうぞお楽しみください。費用は無料です。
    ランチの自由献金は、受付テーブルの上の献金箱で受け付けています。

    ② 今月8日に千葉教会の森稔牧師が天に召されました。
    告別式は、明日の午後1時より、千葉教会で土肥努先生の司式で行わます。
    小山教会からは、基嗣牧師と千葉教会にゆかりのある方々が出席予定です。
    森先生のご家族と千葉教会の方々の上に神さまの慰めを祈ります。
    また、千葉教会のこれからの歩みのためにも覚えてお祈りください。

    ③ 【公告】 年次教会総会のお知らせ
    2月15日 (日)の礼拝後に、年次教会総会を開催します。
    教会員の皆さまはご出席ください。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。
    委任状は、LINEでのメッセージやメールでも提出可能です。

    ④ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ11万円です。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像