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公現後第2主日

イザヤ書 43:16–20


16 主はこう言われる。海の中に道を通し
恐るべき水の中に通路を開かれた方
17 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し
彼らを倒して再び立つことを許さず
灯心のように消え去らせた方。
18 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。
19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
20 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。


ヨハネによる福音書 11:17–27

◆イエスは復活と命
17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

説教

過去が及ぼすもの、未来が与えるもの

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    過去は、私たちに
    大きな影響を与えます。
    私たちがそれぞれ
    過去に経験したことは、
    私たちの人格や生き方、
    そして物の考え方などを
    大きく形作っています。
    それは否定できない事実です。
    どんな言葉に耳を傾け、
    何に心を惹かれ、
    どんな人たちと共に過ごし、
    どんなものに時間を割いてきたのか。
    そういったことが
    現在の私たち自身を形作っています。


    過去の出来事がどれほど
    大きな力を持っているのかを
    古代イスラエルの人たちは
    よく理解していました。
    旧約聖書の時代、彼らは、
    毎年のように過越祭というお祭りを
    守り続けました。
    それは、エジプトで
    奴隷であった先祖たちが
    神によって救い出され、
    奴隷状態から解放されたことを
    記念するお祭りです。
    このお祭りをお祝いすることを通して、
    彼らは何度も、何度も
    神の救いを確認しました。
    神の救いの手があの時、
    奴隷状態であった先祖たちに
    伸ばされたように、
    今を生きる自分たちにも及ぶ。
    そんな希望を過去の出来事は、
    イスラエルの民に与え続けました。
    そして、エジプトから脱出した
    あの出来事を思い出す度に、
    彼らは自分たちが神に愛されている、
    神の民であることを思い起こしました。
    過去の出来事が、
    彼ら自身の存在のあり方や、
    生き方、物の考え方を
    形作っていました。


    でも、過去の出来事や経験が
    常に良い形で働くわけではありません。
    過去の辛い出来事は、
    人の心を暗くします。
    時には、長い間
    消えない傷を与えます。
    また時には、
    過去の経験にしがみついて、
    今この時と真剣に
    向き合えなくなってしまう
    ことだってあるでしょう。
    過去の出来事が良いものをもたらし、
    私たちの心を励まし、力づけ、
    勇気づけることもある。
    その一方で、過去の出来事は
    私たちの心を頑固にし、
    暗くし、落ち込ませる。
    そんな風にして、
    過去の出来事は私たちの心や
    生き方を形作っています。
    だからこそ、私たちは時々、
    いやもしかしたら
    頻繁に、後悔します。
    あの時、こうしていたら。
    あの時、こうであったならば。
    ため息混じりに
    過去のことを思い返し、
    今この瞬間を悲しみに
    染めてしまうことがあります。
    過去の出来事は、私たちに
    大きな影響を及ぼし、
    私たち自信を形作っています。


    それは、さきほど読んだ
    ヨハネによる福音書の物語の中に
    登場する人々の間でも見られることです。
    舞台はベタニア。
    エルサレムから東に3kmほど
    歩いたところにある村です。
    そこは、イエスさまの親しい友である、
    マリアとマルタ、そしてラザロが
    暮らす村でした。
    村全体が、そして特にマリアとマルタが、
    ラザロの死に悲しんでいる様子を
    ヨハネは描いています。
    ラザロが病気であるという知らせを受けて、
    イエスさまはベタニアに
    たどり着いたところでした。
    イエスさまの顔を見ると、
    マルタはすぐさま
    イエスさまに言いました。
    「主よ、もしここにいてくださいましたら、
    私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)
    もしイエスさまがもっと早く
    ベタニアに来てくれたならば、
    状況は変わっていたのではないだろうか。
    ラザロを失わずに
    済んだのではないだろうか。
    それは、自分の兄弟であるラザロを失った、
    マルタの悲しい叫び声でした。
    でも、ラザロが病気である
    という知らせをイエスさまが聞いた時、
    ラザロは既に
    亡くなっていたと考えられます。
    マルタやマリアが
    ラザロの病気を伝えるために
    使いを送ってから、
    まもなくしてラザロが亡くなったのでしょう。
    ですから、どれだけイエスさまが早く
    ベタニアに来たとしても、
    ラザロの死も、マルタの悲しみも
    避けることなどできませんでした。
    もちろん、マルタもそんなこと
    よくわかっていました。
    ですから、「もしここにいてくださいましたら、
    私の兄弟は死ななかったでしょうに」と、
    訴えたマルタ自身、
    こんな風に口にしながらも、
    イエスさまに訴えても意味がないと
    わかっていたと思います。
    でも、叫ばずにはいられませんでした。
    誰かのせいにしてしまえば
    楽だからです。
    でも、そんなの
    何の解決にもなりませんでした。
    いや、もしかしたら、
    もっと早くイエスさまのもとに
    使いを送っていれば良かった
    と考えていたのかもしれません。
    決断が遅すぎた
    過去の自分への後悔が
    このような言葉を紡いだのだとしたら、
    マルタ自身、自分を責めながらの
    訴えだったのかもしれません。
    過去に対する
    そのような後悔、悲しみは、
    決してマルタを離しません。
    彼女の心を深く、深く、
    沈み込ませました。


    ヨハネはイエスさまに対する
    このような訴えを
    マルタだけの訴えとしては
    紹介していません。
    きょうは開きませんでしたが、
    この物語を読み進めてみると、
    マリアも、イエスさまに向かって、
    「もしここにいてくださいましたら、
    私の兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)
    と訴えていることがわかります。
    そして、ラザロの死を悲しむ
    群衆たちの中にも、
    「ラザロが死なないようには
    できなかったのか」(37節)と
    問いかける人がいました。
    そう、この物語において、誰もが口々に、
    イエスさまがもしここにいてくれたら...
    とつぶやいています。
    ラザロの死のことで、
    誰もが過去に目を向けています。
    もっと良い選択が
    出来たのではないだろうか。
    そう言いながら、
    過去のことを思い起こし、
    悲しみや苦悩の中に
    閉じ込められていました。
    このように、過去のことを思い出しても、
    希望を持てないことは十分にあります。
    寧ろ、後悔で心がいっぱいになり、
    打ちひしがれることがあります。
    誰かを責めることだってあります。


    イエスさまは、そんなマルタに向かって、
    何を伝えたのでしょうか。
    「もしここにいてくださったならば」
    とマルタに伝えられた時、
    イエスさまは自分の事情を
    説明することはしませんでした。
    むしろ、イエスさまは、
    彼女の視点を別の場所に
    移そうとされました。
    イエスさまはマルタに語りかけます。
    「あなたの兄弟は復活する」(23節)。
    それは、過去の話ではありません。
    未来の話です。
    イエスさまは、過去ではなく、
    また現在の悲しみでもなく、
    未来に目を向けるようにと、促しました。
    過去にばかり目を向けて、
    将来の希望を忘れることが
    あってはいけない、とイエスさまは
    マルタに語りかけているかのようです。
    イエスさまのこの言葉は、
    将来の希望のように聞こえます。
    マルタにもそのように
    聞こえました(24節参照)。
    けれども、イエスさまは、
    その将来の復活は必ず訪れるばかりか、
    今この時に大きな影響を与えているものだと、
    今ここで伝えようとしました。
    そのために、イエスさまはラザロを
    死者の中から復活させます。
    イエスさまは将来の希望を
    マルタをはじめ、すべての人にとって
    確かなものであると伝えるために、
    マルタの目をラザロの復活へと
    向けようとしました。
    主イエスにあって、命を与えられる。
    そんな確かな希望がある。
    死は永遠のものではない。
    その先に、必ず命がある。
    天の国で生きる望みがある。
    これこそが、今を生きる私たちが
    一体何者であるのかを
    決定づけるものです。
    私たちが過去に経験した
    後悔、苦悩、悲しみ、
    そういったものが私たちの存在のすべてを
    決定づけるのではありません。
    復活の命にあずかる日へと向かって、
    天のみ国へとたどり着く日へと向かって、
    私たちは生きています。
    復活の命は何よりも、
    神が私たちを愛し、
    決して見捨てないという、
    神からの永遠の愛のしるしです。
    ですから、私たちが
    過去に経験した悩みや苦しみ、
    受けてきた傷や失ってきたものに
    はるかに勝って、
    私たち自身が何者であるのかと
    伝え続けるものです。
    あなたは神に心から愛されている、
    尊い神の子どもだよ。
    復活の命にあずかり、
    天のみ国に生きる希望は、
    そんな風に未来から
    現在の私たちに向かって、
    力強く語りかけています。
    今を生きる私たちを力強く支えるのは、
    過去に神が私たちに対して
    行ってくださった出来事だけではないのです。
    イエスさまは、マルタにこの事実に、
    きちんと目を留めてほしかったのでしょう。
    過去の後悔に心を囚われ続け、
    現在抱える悲しみに心を塞いで、
    未来に、将来の希望に、
    目を背けることがあってはいけない。
    この希望に私たちは励ましを受け、
    勇気づけられているのですから。
    この希望にこそ、
    私たちは喜びを見出すのですから。


    そんな未来の希望に
    しっかりと目を向けるために、
    イエスさまは自分を見つめるようにと、
    マルタに伝えました。
    イエスさまは、マルタに
    このように語りかけています。
    「私は復活であり、命である。
    私を信じる者は、
    死んでも生きる。」(25節)
    イエスさまがこのように言うのは、
    信じない者は、その復活の命に
    あずかることはできないよと、
    伝えるためではありませんでした。
    そのような風には、
    イエスさまは語っていません。
    ここでイエスさまが伝えているのは、
    復活の命を私たちに与え、
    私たちの命を豊かなものとする。
    そのために私たちのもとに来てくださった、
    イエスさまを信頼してください
    ということです。
    神が主イエスにあって愛を示し、
    復活の命を与えるその対象は、
    すべての人々であり、
    この世界全体です。
    神が願っているのは、
    神を信じる人だけが命を再び得る
    というような世界ではないはずです。
    神の願いは、人類全体であり、
    世界、いや宇宙全体の救いです。
    命ある、あらゆるものが、
    神の復活の命にあずかり、
    将来、新しくされる。
    そんな私たちの想像を遥かに超える、
    命に溢れた将来こそ、
    私たちが待ち望んでいる天の御国です。
    天の御国にたどり着く時、
    そこにないもの、いない人ばかりを
    数え続けることは、
    神が願った豊かな命に溢れた世界とは、
    正反対のことだと思います。
    むしろ、この世界で失われ、
    傷ついたあらゆる命が
    回復され、取り戻される。
    そんな豊かで、平和に満ちた日こそが、
    主キリストにあって訪れる日であると、
    私は信じています。
    ですから、そのような喜びの日を
    私たちのもとに実現してくださる、
    復活の命を私たちにもたらしてくださる、
    イエス・キリストを信頼してください。
    ここから復活の命が始まるのですから。
    この希望を受け止める時、
    私たち自身を規定するものは、
    過去だけではなくなるはずです。
    復活の命にあずかる希望。
    これこそが、私たちが
    何者であるのかを決定づけます。
    それは、私たちが過去に経験した、
    どんな傷も、悲しみも、悩みも、
    すべて主キリストにあって、
    回復へと向かっていく希望と
    なっているからです。
    それは、私たちの過去の経験を
    完全になかったものに
    することとは違います。
    過去の失敗や傷、悲しみや悩みが
    復活の命の光の下で
    新しい意味を持ち始めます。
    私たちの抱える傷や悲しみは、
    誰かに寄り添うためのものに
    ゆっくりと、時間をかけて
    変えられていくかもしれないのですから。
    ですから、過去の経験ではなく、
    将来の希望こそが、
    私たちが何者であるのかを
    決定づけます。
    主キリストにあって
    復活の命を望み見るみなさんは、
    神から見放されることは
    決してありません。
    過去の出来事のみが
    私たちが誰であるのかを
    決定付けるのではないとするならば、
    私たちは過去のことを思い起こし、
    後悔し、涙し、傷つき、
    同じ場所に留まり続ける、
    この世界の定住者ではありません。
    神に愛されながら、天に目を向けて、
    確かな希望を抱いて、
    天の御国を目指して歩き続ける、
    私たちは旅人です。

週報より

  • 2026.01.18 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは午後3時より目黒教会で新年聖会と地区協議会が開催されます。
    基嗣牧師が出席予定です。
    新年聖会の講師は、国立教会の大山裕昭牧師です。
    関東地区のYouTubeチャンネルよりライブ配信が予定されています。
    視聴を希望される方は、YouTubeで「ナザレン 関東」と検索してください。

    ② 教会名簿の更新時期となりました。
    名簿に掲載する情報に変更がありましたら、
    2月8日(日)までに牧師にお知らせください。

    ③ 【公告】 年次教会総会のお知らせ
    2月15日 (日)の礼拝後に、年次教会総会を開催します。
    教会員の皆さまはご出席ください。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。
    委任状は、LINEでのメッセージやメールでも提出可能です。

    ④ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ11万円です。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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