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公現後第6主日

イザヤ書 49:6–13


6 こう言われる。わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
7 イスラエルを贖う聖なる神、主は
人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
あなたを選ばれたのを見て。
8 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え
救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
民の契約とし、国を再興して
荒廃した嗣業の地を継がせる。
9 捕らわれ人には、出でよと
闇に住む者には身を現せ、と命じる。


ヨハネによる福音書 11:45–57

◆イエス、ラザロを生き返らせる
45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

説教

主イエスの死は誰のため?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ヨハネによる福音書は、
    イエスさまの行ったことを
    「しるし」という言葉で紹介しています。
    イエスさまは、水をぶどう酒に変え、
    病の人を癒やしました。
    五千人もの人たちを
    僅かなパンと魚で養い、
    湖の上を歩きました。
    そして、病気によって
    息を引き取った、
    ラザロを死者の中から
    よみがえらせました。
    イエスさまの行いのすべては、
    人びとの間に命を吹き込むものでした。
    あらゆる事柄に、
    あらゆる人びとに、神が関わり、
    命の息を吹きかけてくださる。
    イエスさまは人びとと関わり、
    そんな希望を与えるしるしを
    与え続けました。
    イエスさまが行った、
    このようなたくさんのしるしを見た結果、
    イエスさまを信じる人たちが
    増えていったようです。
    多くの人がイエスさまと
    共に生きることに、
    命の光を見出しました。


    けれども、中には
    正反対の反応をする人たちもいました。
    祭司長やファリサイ派などで
    構成される、最高法院の人びとです。
    つまり、ユダヤの宗教的・政治的な
    指導者たちですね。
    彼らはイエスさまの行動が原因となって、
    ローマ人がやって来て、
    自分たちを滅ぼすことに
    なるのではないかと、恐れています。
    それは一体どういう理屈なのでしょうか。


    ユダヤの最高法院の人びとが
    恐れていたのは、
    民衆がイエスさまを担ぎ上げて、
    ローマによる支配への反対を
    声高に叫ぶことでした。
    そして、彼らのその叫び声が
    暴動へと発展していくことです。
    そのような事態になると、
    ローマ帝国の支配の下で
    実現している平和を
    乱すことになるため、
    ローマからの怒りを
    買うことになってしまいます。
    ユダヤ人たちにとって、
    とても大切であった
    神殿を破壊され、
    仲間たちの命が奪われてしまいます。
    エルサレムに集まっている彼らは、
    土地を奪われて、
    世界中に散り散り
    バラバラになってしまうでしょう。
    そのような事態になるのは、
    何としてでも避けなければならないと、
    彼らは考えました。


    最高法院に集まった
    彼らの相談の最中、
    ある人物が口を開きます。
    大祭司カイアファという人物です。
    「一人の人が民の代わりに死に、
    国民全体が滅びないで済むほうが、
    あなたがたに好都合だとは
    考えないのか。」(50節)
    カイアファはそう言って、
    原因となるイエスさまを
    排除することを提案します。
    暴動を防ぎ、平和を保つためには、
    その中心的な人物の犠牲が必要。
    カイアファによれば、
    この排除は、必要悪だというわけです。


    カイアファのこの発言は、
    ある人たちにとっては、
    自分たちの権力構造を
    守るためのものでした。
    というのも、仮にイエスさまを中心に
    暴動が起きるなら、
    その責任を取らされるのは、
    最高法院のメンバーである
    自分たちでした。
    今の自分たちの持つ権力や
    社会的な立場が、
    ローマによって奪われる。
    そんなことあってはいけません。
    ですから、イエスさまの命を奪うことは、
    そんな自分たちを守るために取るべき、
    最善の行動のように思えたことでしょう。


    ただ、イエスさまの排除について語った
    カイアファの心の内は
    もっと複雑だったかもしれません。
    というのも、彼は、
    大祭司という立場でした。
    この時代の大祭司は、
    ローマの側から任命されています。
    そのため、ローマによる
    ユダヤの統治がうまくいくように、
    ローマとユダヤの間を
    橋渡しする役割を
    大祭司は担う必要がありました。
    つまり、大祭司であるカイアファは
    ローマとユダヤの間に立ちながら、
    ユダヤの平和のために、
    行動する必要があった人物でした。
    特に、彼は18年間、
    大祭司としての務めを果たしました。
    この頃の出来事を記録している、
    ユダヤ人の歴史家によれば、
    およそ100年の間に、
    ローマから任命された大祭司は、
    28人いたそうです。
    平均すると、一人当たり、
    3年半ほどの在任期間になります。
    そのため、18年間という
    彼の在任期間は
    異例の長さといえます。
    それは、カイアファに対する
    ローマからの信頼の証でした。
    ですから、彼は現実的に、
    ローマに忠実でありながら、
    ユダヤを守るために行動することを
    心がけた人物だったといえるでしょう。
    そんな彼がこの時、
    最も現実的だと考えたことが、
    イエスさまを排除することでした。
    ローマによる支配を続けるために、
    ローマとユダヤの現在の関係を
    壊さないために、
    イエスさまを排除する。
    そうすればすべてが解決するように、
    カイアファの目には映りました。


    福音書の物語は、
    まさにこの計画が進められ、
    イエスさまが逮捕され、
    十字架の上で命を落としたことを
    報告します。
    ある人は、権力を守るために。
    ある人は、平和を維持するために。
    ある人は、憎しみゆえに。
    ある人は、熱狂に流されて。
    またある人は、正義感ゆえに。
    人々はイエスさまの命を奪い、
    自分たちの滅びを免れようとしました。
    でも皮肉なことに、
    最終的にイエスさまの死から
    およそ40年後に
    ユダヤの都エルサレムは
    ローマ軍に囲まれました。
    そして、彼らの神殿は壊され、
    彼らは自分たちの居場所を
    奪われました。
    どれだけ細心の注意を払って、
    危険分子を排除し続けたとしても、
    彼らが恐れていた事態は
    最終的に訪れてしまいました。
    その意味で、カイアファの言葉通りには、
    ならなかったと言えるでしょう。
    イエスさまが死んでも、
    エルサレム全体が滅びを免れる
    ということはありませんでした。


    けれども、ヨハネによる福音書は、
    カイアファが語った言葉を
    預言として受け止めて
    紹介しています。
    カイアファが意図したこととは、
    違う意味が込められているものとして、
    ヨハネは彼の言葉を受け止めました。
    「一人の人が民の代わりに死に、
    国民全体が滅びないで済む」。
    イエスさまの死は、国家や民族を
    救うためのものではありませんでした。
    そうではなく、一人ひとりが
    主イエスにあって神と結びつき、
    命を得るために、
    イエスさまは命を落とされました。
    それは、命を奪うような世界において、
    そこで生きる人に、
    命を与えるためのものでした。


    ところで、カイアファが語った、
    「国民全体」という言葉には、
    一体誰が含まれているのでしょうか。
    この言葉を語ったカイアファ本人は、
    ユダヤ人たちという、
    とても狭い範囲で考えていたと思います。
    そして、カイアファの発言を聞いていた、
    祭司長たちやファリサイ派の人たちの一部は、
    もしかしたらもっと狭い範囲を
    考えていたかもしれません。
    ある人たちにとって、重要であったのは、
    自分たちの権力が守られることでした。
    ですから、そんな人たちにとって、
    国民全体とは、何よりも
    権力を持つ自分たちでした。
    でも、この言葉を語ったカイアファや
    その場にいた人たちの思いを超えたところで、
    神は私たちにこの言葉を語りかけています。
    イエスさまを通して、
    救いへの道が開かれたのは、誰でしょうか。
    ユダヤ人だけでしょうか。
    ユダヤの指導者たちだけでしょうか。
    実際のところは、
    もっと広く、普遍的なものでした。
    民族という枠に捕われない。
    性別も、年齢も、
    社会的な立場も関係ない。
    政治的な主張や信念も関係ない。
    能力や財産も関係ない。
    文字通りすべての人が
    主イエスによって実現した、
    神の救いの対象です。
    すべての人の前に、
    神の救いは開かれています。


    だからこそ、カイアファをはじめ、
    最高法院に集まった人たちの声は、
    私たちの世界の現実を
    映し出しているような声として、
    尚更、悲しい響きをもって
    聞こえてきます。
    彼らは、自分たちの命だけを保つために、
    他のものを犠牲にしようとしています。
    自分たちにとって不都合な声を
    聞こえないものとして
    取り扱おうとしています。
    それは、現代社会にも、
    嫌と言うほど溢れている
    声ではないでしょうか。
    一部の力ある人たちだけが
    得をすれば良い。
    そんな考えの下で、
    弱い立場に立たされている人たちが
    切り捨てられていく。
    自分たちの見えている世界が、
    この世界のすべてで、
    背後で苦しんでいる人たちの声を
    聞きたくない。
    そんな姿に気づきたくない。
    いや、私たちの興味関心に
    合わせて情報を紹介してくる、
    現代のソーシャルメディアでは、
    気づくことさえ出来ないのかもしれません。
    そんな無関心や排他的な感情は、
    私たちの生きる社会を
    包んでいる現実です。
    だから、イエスさまが
    犠牲となってしまいました。
    命を与えるどころか、
    命を奪い、傷つけ、損なわせる。
    そのような現実を生きるすべての人に、
    命を吹き込み、救いの道を開くために、
    イエスさまは十字架の上で息を引き取り、
    犠牲となられました。
    それは、そういった犠牲が
    当たり前の世界で、
    イエスさまはその当たり前を
    終わりにするためでした。
    この世界で生きるすべての人に、
    神によって与えられた
    命の豊かさを取り戻すために、
    イエスさまはご自分が苦しみ、
    死へと明け渡される道を歩まれました。


    そんなイエスさまの姿を見つめる時、
    イエスさまが私たちに向かって、
    手招きしておられることに気づきます。
    それは、私たち自身が
    イエスさまのように、
    誰かの犠牲となることではありません。
    それは、「一人を犠牲にすれば丸く収まる」
    というような、カイアファたちの作り出す、
    社会のあり方と何も変わりません。
    何かを犠牲にすれば、
    何かを切り捨てれば、
    すべてが丸く収まり、うまくいく。
    自分さえ犠牲となれば、
    すべてがうまくいく。
    そういったあらゆる犠牲に対して、
    イエスさまは終わりを
    告げようとしておられます。
    命を奪い合う構造に
    終わりを告げようとしておられます。
    そんなイエスさまが、
    私たちに向かって手招きしている道は、
    私たちが自分や共に生きる人の
    命を踏みにじり、
    犠牲にする道ではありません。
    私たちが自分や共に生きる人たちの、
    そのお互いの豊かな命を喜び合って、
    生きることを選び取ることができる道です。
    誰も犠牲としない道を選ぶことを
    一緒に悩みながら、模索していく道です。
    苦しんでいる人の声に耳を澄まして、
    寄り添って、一緒に歩んで行く道です。
    人を恐れて、敵を作り出すのではなく、
    語り合い、信頼を築いていく道です。
    お互いの違いを疎むのではなく、
    その違いから生まれる、
    多様な生き方や考え方を
    喜び合う道です。
    そんな命の豊かさに溢れた日々を
    私たちに取り戻させるために、
    主イエスは十字架の上で死に、
    私たちのために救いの道を
    ひらいてくださいました。
    まさに主イエスの死は、
    きょうを生きる私たちのためにあります。

週報より

  • 2026.02.15 週報より抜粋・要約

  • ① 50周年記念の『モレノ』特別号のサンプルが届きました。
    ご寄稿や編集に携わってくださった皆さま、ありがとうございました。
    ご自分の書いた原稿に誤字脱字がないかご確認ください。

    ② きょうは礼拝後にランチの会と年次教会総会を予定しています。
    ランチの会のメニューはセルフサービスのサンドイッチです。
    総会は、教会員以外の方は議決権はありませんが、出席・発言はできます。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。委任状は、LINEやメールでも提出可能です。

    ③ 今週水曜日は灰の水曜日です。
    キリストの受難を覚える四旬節(復活祭前の40日間)が水曜日より始まります。

    ④ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ6万円です。

    ⑤ 4月からの係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    週報にはさんである申し込み用紙をご覧ください。
    係を担当してくださる方は記入して、
    受付テーブルの上の白い箱に入れてください。

    ⑥ 教職感謝月間献金(2月の月間献金)にご協力ください。
    小さな教会で牧師給与が充分でない牧師たちのための補助に用いられます。
    献金袋が受付テーブルにありますので、ご利用ください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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