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四旬節第2主日

哀歌 1:1–11


1 なにゆえ、独りで座っているのか
人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか
多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか
国々の姫君であったこの都が。
2 夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。
3 貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き
異国の民の中に座り、憩いは得られず
苦難のはざまに追い詰められてしまった。
4 シオンに上る道は嘆く
祭りに集う人がもはやいないのを。シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。
5 シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し
苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり
苦しめる者らの前を、引かれて行った。
6 栄光はことごとくおとめシオンを去り
その君侯らは野の鹿となった。青草を求めたが得られず
疲れ果ててなお、追い立てられてゆく。
7 エルサレムは心に留める
貧しく放浪の旅に出た日を
いにしえから彼女のものであった
宝物のすべてを。苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を
助ける者はない。絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている。
8 エルサレムは罪に罪を重ね
笑いものになった。恥があばかれたので
重んじてくれた者にも軽んじられる。彼女は呻きつつ身を引く。
9 衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。落ちぶれたさまは驚くばかり。慰める者はない。「御覧ください、主よ
わたしの惨めさを、敵の驕りを。」
10 宝物のすべてに敵は手を伸ばした。彼女は見た、異国の民が聖所を侵すのを。聖なる集会に連なることを
主に禁じられた者らが。
11 彼女の民は皆、パンを求めて呻く。宝物を食べ物に換えて命をつなごうとする。「御覧ください、主よ
わたしのむさぼるさまを見てください。」


ヘブライ人への手紙 2:10–18


10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
12 「わたしは、あなたの名を
わたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」と言い、
13 また、
「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、
「ここに、わたしと、
神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

説教

傷ついた私たちを見てください

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    「ああ」(1節)と声を発することから、
    哀歌という書物は始まっています。
    それは、驚きが込められたような
    声なのでしょうか。
    それとも、ため息混じりの
    声なのでしょうか。
    いいえ、
    そのどちらでもありません。
    この哀歌という作品を通して、
    表現されていることは、
    エルサレムの都が
    徹底的に滅ぼされた。
    その悲しみや嘆きです。


    聖書において、エルサレムは
    特別な意味を持つ都でした。
    そこは、神が選んだ都として
    受け止められていました。
    また、ユダヤ人や
    彼らの先祖である、
    古代イスラエルの人々の故郷であり、
    中心的な都として
    エルサレムは知られていました。
    毎年、お祭りがある時には、
    彼らは喜んで、
    エルサレムへと足を運びました。
    当時の人たちは、
    エルサレムが神から
    祝福された都であることを
    疑いませんでした。
    神の都であるエルサレムは、
    決して揺るがない都であると、
    彼らは強く信頼していました。


    でも、ある時、その都は、
    バビロニアの軍隊に囲まれました。
    王や祭司たちは捕らえられ、
    見知らぬ地へと連れて行かれました。
    逃げ出した人たちもいれば、
    殺された人たちもいます。
    バビロニア軍にエルサレムが
    包囲されたその期間は長引き、
    食糧不足を引き起こしました。
    ある人は飢餓により、
    またある人は疫病により
    亡くなりました。
    そして、最終的に
    エルサレムの都は滅ぼされ、
    彼らの神殿は壊されました。
    ある人たちはエルサレムから、
    バビロニアへと
    強制的に連れて行かれました。
    またある人たちは、
    命からがら逃げ切り、
    生き延びました。
    そして、破壊されたエルサレムの都に
    戻って来ました。
    この哀歌という作品には、
    瓦礫の山となったエルサレムを見つめ、
    哀しみ、嘆き、涙を流して、立ち尽くす。
    そんな生き残った人たちの声が
    記錄されています。


    ですから、哀歌の始まりは、
    単なるため息混じりの声でも、
    驚いた声でもありません。
    悲しみと嘆きで
    心が溢れているけれども、
    この感情をどこに
    向けるべきかわからない。
    でも、この抑えることができない
    悲しみや嘆きを声に出して、
    神に向かって伝えた。
    そんな言葉です。
    「ああ、なんということだ」。
    そんな目の前の惨状を前に、
    抑えきれない哀しみや苦しみを抱え、
    立ち尽くしていた人たちの心から
    漏れ出たような叫び声から、
    この哀歌という詩は
    始まっています。


    詩人は、エルサレムの都が
    無惨にも破壊されたこの状況を
    言葉の限りを尽くして
    表現しています。
    その際、詩人は
    擬人化表現を用いて、
    エルサレムの都を
    人間のように描いています。
    エルサレムの都、
    それは奴隷のようになってしまった女王。
    夫を亡くし、
    社会的な保護を
    失ってしまった女性。
    夜通し涙を流す女性。
    暴力を受け、嘲りを受けた女性。
    裸にされ、うめき声を上げる女性。
    どれだけ悲惨な目にあっても、
    彼女を助けてくれる人は現れない。
    どれだけ叫び声を上げても、
    彼女を慰めてくれる人はいない。
    そんな人、どこにもいない。
    このように、詩人は様々な形で
    人間の傷ついた姿を描いています。
    そうすることによって、
    エルサレムの都が
    目を覆いたくなるようなもので
    あったことを鮮明に伝えています。
    エルサレムの都や、
    そこに住む人々が
    どれほど深く傷つき、打ちのめされたのか。
    そして、彼らの命がどれほど蹂躙され、
    その都が破壊されたのかを
    詩人は描こうとしています。
    そうすることによって、
    この都にも、ここに住んでいた自分たちにも、
    もう希望がないと、
    詩人は伝えています。


    正直、哀歌の冒頭部分は、読んでいて、
    気分の良いものではありません。
    特に、女性のイメージばかりを用いて、
    表現できないほどの苦しみを
    描こうとするその姿勢もまた、
    現代に生きる私たちにとって、
    嫌気が差すものかもしれません。
    古代世界において、
    都は女性的に
    描かれることがありました。
    そういった文化的な制約も抱えながら、
    ここでは、女性のイメージ
    ばかりが用いられて、
    エルサレムの破壊によって
    引き起こされた、
    人々の苦しみが描かれています。


    この詩人が苦しんでいる、
    エルサレム崩壊の出来事の原因は
    一体どこにあるのでしょうか。
    現代に生きる私たちは真っ先に、
    それはバビロニアの軍隊が
    攻めてきたからだと
    答えるでしょう。
    けれど、哀歌を綴った人々は、
    それだけが理由とは
    考えられませんでした。
    寧ろ、自分たちに
    原因があると考えました。
    「背き続けた罪のために
    主が彼女を悩ませているのだ」(5節)。
    「エルサレムは罪に罪を重ね
    汚れた者となった」(8節)。
    というように、
    詩人は自分たちに
    大きな原因があると考えました。
    自分たちが
    神に従わなかったから。
    神が愛する人びとを愛するよりも、
    他の人を利用し、時には騙し、
    自分の利益にばかり走る
    生き方をしていた。
    だから、神によってその罪を
    裁かれているのだと考えました。
    そう、自分たちの置かれている、
    このどうしようもない状況は、
    自分たちのせいなのだ。
    彼らはそのように考えることしか、
    できなくなっています。


    そのような考え方は、
    自分たちの行動を見つめ直し、
    過ちがあったと考えるなら、
    改めるという生き方を
    私たちに提示することでしょう。
    その意味では、
    意味があるかもしれません。
    けれども、そもそもこの世界は
    因果応報のシステムでは
    できていません。
    良いことをすれば、
    常に良いことが
    訪れるわけではありません。
    悪いことがあったのは、
    自分の悪事が原因
    というわけでもありません。
    まったく違うところに
    原因があることだって、
    いくらでもあります。


    もちろん、この哀歌という作品も、
    そんな因果応報的なものの考え方に
    完全に支配されている
    わけではありません。
    神の前に罪を犯した
    自分たちのこれまでを
    悲しみながらも、
    心では納得がいきません。
    色んな感情が沸き起こっています。
    だからでしょうか。
    エルサレムの人々の叫び声を
    詩人は記録しました。


    「主よ、私の苦しみを
    御覧ください。」(9節)
    「御覧ください、主よ。
    目を留めてください
    私がどれほど卑しい女に
    成り果てたかを。」(11節)


    日本語訳聖書の
    「卑しい女に成り果てた」
    という訳ですが、
    私は正直、あまり好きになれません。
    現代において、卑しいって、
    ものやお金に対する欲望が
    むき出しな姿を
    意味する印象が強いからです。
    哀歌がもともと書かれた言語である、
    ヘブライ語でこの部分を読んでみると、
    ここで意味していることは、
    「無価値である」ことです。
    エルサレムの都が
    バビロニア軍に蹂躙され、
    神殿も王も人も奪われてしまった。
    今、どれほど自分たちが
    全く無価値な存在に
    なってしまったのか。
    その姿を見てください。
    傷ついた私たちを見つめて、
    心に留めてください。
    そして、助けてください。
    慰めを与えてください。
    詩人はそんな風に、
    神に訴えています。


    哀歌に記録されている
    この叫び声は、
    まるで時代を越えて、
    読者である私たち自身に
    訴えかけてくるかのような言葉です。
    傷つき、命を踏みにじられ、
    無価値にされた人たちが
    叫んでいるのです。
    そんな私たちを見てください。
    傷ついたこの様を見てください。
    心に留めてください。


    尊い人間の命を無価値にし、
    哀歌に記録されているような
    叫び声を生み出す。
    ああ、何ということだという
    うめき声を生み出す。
    そんな人間の悪意や罪、過ちは、
    哀歌に記されている言葉が
    紡がれた時代だけの問題では
    決してありません。
    今も私たちの世界の現実に、
    横たわっています。
    いや、溢れています。
    昨日、イスラエル軍とアメリカ軍が
    イランを空爆したという速報が
    スマホに流れてきました。
    力によって相手をねじ伏せ、
    現状を変えようとする。
    力によって見せかけの平和を
    作り出そうとする。
    そんな中、いつも犠牲となるのは、
    名も無き市民です。
    尊い命が、その価値を奪われています。
    そしてそれは、決して他人事ではありません。
    私たちの国は、殺傷能力のある武器を
    世界の国々に売ろうとする
    動きが加速しています。
    紛争のある国に、武器を送り、
    人々の命を奪うことに
    加担しようとしています。
    私たちの生きるこの世界は、
    傷ついている人たち、
    無価値にされてしまっている人たち、
    叫び声を上げている人たちを見つめることが
    出来ていないのではないでしょうか。


    だから、哀歌の言葉に耳を傾ける時、
    私にはこの世界が求めている、
    神への訴えに聞こえてなりません。
    傷ついた私たちを見つめてください。
    今まさに傷つき、
    暴力によって命が無価値なものにされている、
    この世界を憐れみ、見つめてください。
    そして、その詩人の声は、
    神に対する訴えであると共に、
    この詩を読む私たちや
    この世界に対する訴えだと思います。
    傷ついた人々を見つめてください。
    誰が傷ついているのか。
    誰がこの世界で
    無価値にされているのか。
    いい加減気づいてください。
    見つめてください。
    立ち上がってください。
    憐れんでください。
    助けてください。
    そんな痛ましい叫び声に、
    耳を傾けるようにと、
    哀歌に綴られた言葉は、
    私たちに訴えかけています。
    傷ついた私たちを見てください、と。


    傷ついた私たちを、
    そしてこの世界を見つめる時、
    神は一体何をされたのでしょうか。
    傷つき、あらゆる暴力や理不尽によって、
    無価値なものにされている
    私たちやこの世界に、
    神は一体どのように
    関わっておられるのでしょうか。
    きょうは、新約聖書から、
    ヘブライ人への手紙を読みました。
    この手紙が伝えるのは、
    イエスさまが傷ついている姿です。
    命を蔑ろにし、踏みにじり、
    無価値なものとして人を取り扱ってしまう。
    そんな私たちの抱える
    罪に終止符を打つために、
    傷つき、命を失ったイエスさまの姿を
    この手紙は伝えています。
    十字架にかけられたイエスさまこそ、
    究極的に、すべての人のために、
    無価値な者とされた存在でした。
    それは、神の側が
    自分の価値のすべてを捨て去ってまで、
    私たちを愛し抜き、
    救いの手を伸ばし続けていることを
    逆説的に伝えるものでした。
    神が自らの価値を捨て去るほどに、
    あなたを、私たちを、この世界を、
    神が愛し抜く。
    傷ついたイエスさまの姿に、
    そのような神の愛を
    私たちは見出すことができます。
    そう、十字架にかけられて
    傷ついたイエスさまの姿こそが、
    人間の罪や悪ゆえに
    傷ついた私たちや
    この世界を見つめた時に、
    神が起こした行動であり、
    神の答えでした。
    無価値ではない。
    いや、決して無価値なものにさせない。
    神は、身を挺してまで、
    私たちにその事実を
    告げてくださっています。


    そんな力強い神の声は、
    決して私たちが
    独占すべきものではありません。
    神は全世界に対して、
    すべての人に対して、
    この強い願いを持っているのですから。
    誰も無価値にはさせない。
    誰の価値も奪わせない。
    それは私たちの信仰の旅路の
    大きな指針となるでしょう。
    私たちの声は小さく、
    出来ることは決して多くはありません。
    けれども、神が価値を見出しているという
    この声をこの世界に少しでも届けることは、
    私たちの大きな願いとならないでしょうか。
    「傷ついた私たちを見てください」。
    そんな声が聞こえてくるなら、
    どうかまず、私たち自身が、
    声を上げる人びとをきちんと
    見つめることができますように。
    そして、何よりも、
    主イエスが傷つきながら、
    自分の身を投げ出しながら、
    価値を見出してくださっています。
    どうか、言葉や行いを通して
    キリストの愛や憐れみを
    この世界に、共に生きる人たちの間に、
    届けていくことができますように。
    主イエスと共に生きる、
    みなさんの言葉と毎日の生活を通して。

週報より

  • 2026.03.01 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に讃美歌を歌う会を行います。
    讃美歌のリクエストがある方は、奏楽者までお知らせください。

    ② 次週礼拝後に月例教会役員会を行います。
    役員会への提案がある方は、牧師または教会役員までお知らせください。

    ③ 双方向での礼拝のオンライン出席が可能となりました。(本日より試験的に実施)
    Google Meetを使用してご自宅から聖書の学びと礼拝に
    出席することが可能となります(詳しくはきょうの牧師書簡をご覧ください)。
    設定方法も含めて、利用方法を知りたい方は基嗣牧師までお知らせください。
    礼拝時間の前後は、オンラインで礼拝出席される方たちと
    ゆっくりお話ができるようにもしておきます。

    ④ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ4万円です。

    ⑤ 4月からの係の礼拝の係やチームにご協力いただける方を募集しています。
    係を担当してくださる方は申し込み用紙にご記入の上、
    受付テーブルの上の白い箱に入れてください。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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