小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ   >   礼拝説教・週報一覧   >  広い場所へと導くために

朗読箇所

待降節第2主日

ヨシュア記 2:1-24

◆エリコを探る
1 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
2 ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、
3 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
4 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
5 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
6 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
7 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
8 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、
9 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。
10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。
13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」
15 ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
16 彼女は二人に言った。「追っ手に会わないように、山の方へ行きなさい。三日間はそこに身を隠し、追っ手が引き揚げてから帰りなさい。」
17 二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。
18 我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。
19 もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。
20 もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」
21 ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。
22 二人は山に入って行き、そこに三日間とどまって、追っ手が引き揚げるのを待った。追っ手はくまなく捜したが、見つけ出すことはできなかった。
23 その後、二人は帰途につき、山を下り、川を渡って、ヌンの子ヨシュアのもとに戻り、自分たちが経験したことを一部始終報告して、
24 こう言った。「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」


マタイによる福音書 1:1-6a


1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、

説教

広い場所へと導くために

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    きょう開いたヨシュア記の物語の中に、
    エリコの町に住む、
    ラハブという名前の女性が登場します。
    私にとって、このラハブという女性は、
    どんな風に受け止めたら良いのか、
    とても難しいと感じる
    聖書の登場人物の一人です。
    新約聖書を開いてみると、
    初期のキリスト教会において、
    ラハブはとても好意的に
    受け止められていたことがわかります。
    確かに、彼女のおかげで、
    エリコの町を偵察に来た、
    2人のイスラエル人は安全に、
    自分の仲間たちのもとに
    戻ることができました。
    そのため、旧約聖書において
    中心的に描かれている
    イスラエルの人々にとっては、
    ラハブは英雄のような存在です。


    ただ、視点を変えてみたらどうでしょうか。
    イスラエルの人にとってではなく、
    ラハブが暮らしていた
    エリコの町の人々にとっては、
    ラハブはどのような存在なのでしょうか。
    ラハブは、古代イスラエルが
    エリコを攻め落とす
    きっかけを与えた人物といえます。
    彼女は、エリコの町の人たちが
    イスラエルの民を恐れ、
    心くじけている
    という情報を渡しました。
    エリコの町に偵察に来ていた
    二人の人を彼女はかくまい、
    命を助けました。
    そして彼女は、
    エリコの町が攻められる時、
    自分と自分の家族を助けてほしいと
    彼らにお願いしました。
    このような彼女の行動を
    エリコの町の人の視点で読んでみたら、
    どのように感じるでしょうか。
    エリコの人々にとっては、
    彼女は自分の命が助かるために、
    エリコの町を引き渡した
    裏切り者だといえます。


    ラハブはなぜエリコの町を
    裏切ったのでしょうか。
    きっと、ヨシュア記が紹介する、
    彼女の置かれた境遇が
    その手がかりになると思います。
    ヨシュア記の物語は、
    ラハブを遊女として紹介しています。
    古代世界において
    遊女であるということは、
    誰の保護の下にもない
    ということを意味しました。
    夫がいない。
    また、父親がいないか、
    父親の助けを得られない。
    そのような女性たちの
    おそらく最後の手段が、
    遊女となって生きる道でした。
    それは、社会の当たり前から外れて、
    社会の片隅で生きるような道でした。
    誰からの助けも得られず、
    自分の力で何とかして
    生き抜いていかなければいけない。
    それが彼女の置かれた境遇でした。


    ラハブについて、聖書が提供する情報は
    決して多くはありません。
    ただ、彼女についてもうひとつ
    特徴的なこととしてわかるのは、
    彼女の家が城壁の中にあったことです。
    つまり、彼女の住む場所は、
    エリコの町の内部と
    エリコの町の外側の
    境界線上にありました。
    安全なエリコの町内部と
    危険な城壁の外に挟まれて、
    彼女は生活をしています。
    まさに彼女は文字通り、
    社会の片隅で生きていました。
    城壁は、部屋が狭いほど、
    防衛力が高くなるようです。
    ですから、彼女の部屋は
    決して広くはなかったでしょう。
    その部屋の狭さは、
    彼女の生活の息苦しさを
    象徴しているかのようです。
    皮肉なことに、ラハブの名前は
    ヘブライ語で、「広い」という意味です。
    自分の名前とは真逆の環境で、
    彼女は窮屈さを感じながら、
    生活をしていました。


    このような自分の境遇に
    彼女は望みを見出すことができなかったと、
    想像することができるでしょう。
    だからこそ、彼女は
    エリコの町を裏切る道を
    選んだのでしょう。
    狭いあの部屋から、
    息苦しいエリコの社会から抜け出し、
    より広い場所へと出て行くために、
    彼女は行動しました。
    同胞を裏切り、
    イスラエルという共同体に
    受け入れてもらう道を選びました。
    それがどれほど手放しで
    喜べない選択であったとしても、
    彼女にとってはこれしか
    選べる道がありませんでした。
    こういう形でしか、
    自分の辛い境遇から
    抜け出す方法がわかりませんでした。
    それが、ヨシュア記で紹介されている、
    ラハブという女性の姿です。


    エリコの町を抜け出した結果、
    彼女が新しく暮らすことになった
    イスラエルという共同体が
    果たして彼女にとって窮屈さがなく、
    より広い場所であったのかは、
    正直、わかりません。
    というのも、ヨシュア記が
    提供する情報からは、
    どちらとも読めるからです。
    彼女はイスラエルの社会の中では、
    外国人であり、部外者です。
    ですから、相変わらず、
    息苦しさを感じていたかもしれません。
    外国人であっても、受け止められて、
    新しい歩みを始めることができ、
    息苦しさや窮屈さから
    解放されたかもしれません。
    いずれにせよ、
    ラハブの物語の結末については、
    この物語を読む私たちの想像力に、
    最終的に委ねられているといえるでしょう。


    そんなラハブがエリコの町の中で
    経験していた息苦しさや窮屈さは、
    形が違えど、私たちが
    経験するものともいえます。
    社会や、家族や、周囲の人々が
    こうあるべき、これが普通と
    考える姿を生きられない時、
    まるで狭い部屋に
    押し込められたような、
    窮屈さや息苦しさを
    私たちは感じてしまいます。
    いや、そもそも自分がこうあるべきだと
    考えるような状態から
    離れてしまっていることを許せない。
    そんな自分自身がいる
    場合だってあるでしょう。
    またときに、私たち自身が
    そういった窮屈さや息苦しさを
    知らず知らずのうちに、
    他の誰かに与えてしまっている
    かもしれません。
    私たちの社会は、
    少数派とみなされている人たちに、
    やはり生きにくさや息苦しさ、窮屈さを
    与え続けてしまっているでしょう。
    性別の違いを極端に強調することによって。
    政治家たちや、SNS上の匿名の人たちが
    排外主義を声高に叫ぶことを
    許してしまっていることによって。
    自分たちの居心地の良さにばかり、
    目を向けてしまうことによって。
    自分とは違う立場の人たちを
    想像できないことによって。
    そんな息苦しさ、狭苦しさ、生きにくさは、
    この社会には数え切れないほどあります。


    ラハブは、そのような窮屈さから、
    エリコの町を捨てて、
    広い場所で生きることができる。
    そのような道を自ら選び取りました。
    それは、彼女の前に、
    そのような選択肢が現れたからです。
    今にも攻めてくる
    イスラエルの脅威の前に、
    エリコよりもイスラエルを選ぶ方が、
    賢い選択だと思えたためです。
    ただ、ラハブのように、
    自ら望んで、窮屈な環境を抜け出すために、
    一歩踏み出すことは、
    決して当たり前のように、
    誰の前にも用意されている
    選択肢では決してないでしょう。
    寧ろ、選べないことの方が
    多いと思います。
    けれども、現実の窮屈さを感じ、
    より広い場所を渇望する。
    それは多くの人の
    心からの願いだといえます。


    私たちはきょうは礼拝の中で、
    詩編4篇を声を合わせて読みました。
    この詩編のはじめに、
    詩人は、「あなたは私を苦しみから
    解き放ってくださいました」と祈っています。
    このフレーズのヘブライ語からの直訳は、
    ラハブの物語にぴったりな響きを
    持っています。
    「狭いとき、あなたは私に
    広いスペースを与えてくださった」。
    詩人は、狭く、息苦しい状況が、
    かつて神によって
    変えられたことを思い起こし、
    神に憐れみを求めて訴えています。
    再び窮屈さを感じる時、
    神が広い場所へと導いてくださることを
    詩人は願い続けています。
    私たちを窮屈にする、
    あらゆる苦しみ、
    生きにくさから解放され、
    私たちを取り囲む世界が
    広々としたものとなる。
    それは、この詩編を綴った
    人々だけの祈りではありません。
    この詩編を受け止め、祈ってきた、
    あらゆる時代の人々の祈りです。
    ですから、窮屈さや息苦しさを感じる状況に
    自由や解放、救いといった
    広さを求めるこの祈りは、
    時代を越えて祈られている、
    私たち人間の心からの
    神への叫びといえるでしょう。


    広い場所へ行くことを願って、
    狭い場所を抜け出したラハブの物語は、
    そんな私たちの叫びを
    思い起こさせる物語です。
    そして、だからこそ、
    ラハブの名前は、
    マタイによる福音書の冒頭に
    記されているのではないでしょうか。
    窮屈さを抱えて生きる
    すべての人の希望として、
    イエス・キリストを紹介する系図の中に、
    ラハブの名前が含まれています。
    窮屈さを感じているあなたの叫びを
    神は確かに聞いておられる。
    息苦しさを覚えているあなたの叫びを
    神は確かに受け止めてくださる。
    だから、神はイエスさまを
    私たちのもとに与えてくださった。
    系図の中に入れられたラハブの名前は、
    私たちにそのように
    伝えているかのようです。


    ただ、神はイエスさまを通して、
    すぐさま窮屈さや
    息苦しさを感じないような、
    広い場所へと私たちを
    移すことはしませんでした。
    神が選んだのは、
    私たちが狭さや息苦しさを
    感じる場所へと
    イエスさまを送ることでした。
    そうすることによって、
    イエスさまは私たちとその思いを
    共にしてくださいました。
    窮屈さを一緒に味わい、
    一緒に広い場所を目指して
    歩み続けるために、
    イエスさまは来てくださいました。


    イエスさまは、すぐさま私たちを
    広々とした場所へと導き、
    あらゆる苦しみや息苦しさを
    取り払いませんでした。
    むしろ、私たちと
    その苦しみを共にすることを
    選ばれました。
    一体なぜなのでしょうか。
    それは、私たち自身が経験する
    その窮屈さや息苦しさが
    イエスさまが伴ってくださることを通して、
    変わっていくことを
    私たちに味わってほしいからなのでしょう。
    広い場所。
    私たちはそれを天の御国と
    呼ぶかもしれません。
    天において、私たちは、
    お互いをそのありのままで
    受け止められると信じています。
    天の国において、当たり前を
    強制されることはなく、
    その存在のありのままが、
    その生命の美しさが喜ばれるからです。
    そんな天の御国は、私たちにとって、
    人生の旅の終わりにある
    だけのものではありません。
    イエスさまは、
    「天の国は近づいた」(マタイ3:1)、
    「天の国はあなたがたの
    中にある」(ルカ 17:21)と、
    語りかけておられます。
    まだ完全な形ではないかもしれないけど、
    それでも、天の国はキリストにあって、
    この世界に、私たちの間に広がっていく。
    そんな希望を私たちは
    イエスさまから与えられています。
    争いのない、
    息苦しさのない場所。
    誰かの命を貶めて、
    窮屈にしない場所。
    憎しみや妬みではなく、
    笑顔や愛情で溢れている場所。
    そんな天の国が
    この世界に広がっていくために、
    イエスさまは私たちの狭いところに
    来てくださいました。
    それは、私たちの窮屈な所を
    広い所へと変えていくためです。
    そうやって、広い場所へと
    私たちをゆっくりと導くために、
    イエスさまは私たちのところに
    来てくださいます。
    ですから、私たちは希望をもって、
    私たち自身が狭さを感じる場所に、
    「主よ、来てください」と祈りながら、
    イエスさまをお迎えし続けます。
    愛の欠けた所、
    憐れみのない所に。
    命が蔑ろにされる所、
    争いのある所に。
    私たちが窮屈さや
    息苦しさを感じる、
    あらゆる所に。
    どうか希望の源であるキリストが
    きょう、訪れてくださいますように。

週報より

  • 2025.12.07 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後、午後1時30分よりクリスマス音楽会を予定しています。
    クリスマス・ソングを楽しめる会です。どうぞご予定ください。

    ② クリスマス関連の集会のご案内
    今年のキャンドルサービスは20日(土) 19:30より予定しています。
    今回は朗読劇を組み込んだプログラムを予定しています。
    朗読劇をお手伝いいただける方は牧師までお知らせください。
    21日(日)のクリスマス礼拝後は、クリスマス祝会を行います。
    食事は例年通り、持ち寄りの食事会の予定です。
    持ち寄りの食べ物は無理なさらなくて大丈夫です。
    可能な方は、食べ物飲み物をお持ち寄りください。
    24日(水)19:30からは、テゼの曲を中心に歌う、イヴの祈りを開催します。
    みなさま、それぞれご予定ください。

    ③ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ22万円です。

    ④ 2026年の教会カレンダーをお持ち帰りください。
    今年も2種類のカレンダーを選びました。お好きな方をお持ち帰りください。
    教会から皆さまへのクリスマス・プレゼントです。

    ⑤ クリスマス献金にご協力ください。
    牧師へのクリスマス手当、キリスト教関連団体への寄付などに用います。
    受付テーブルの献金袋をご利用ください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

フッター画像