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朗読箇所

三位一体後第23主日

エレミヤ書 23:1–6


1 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。
2 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
3 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。
4 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え
この国に正義と恵みの業を行う。
6 彼の代にユダは救われ
イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。


コロサイの信徒への手紙 1:11–20


11 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、
12 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。
13 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。
19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

説教

キリストをかしらとする共同体

  • 説教者  稲葉奈々牧師

     

    みなさま、おはようございます。

    はい、一体何が起こっているのでしょうか。まさか私がこの場所に立って、小山教会の、日曜日の礼拝で、説教のご奉仕を担う日が来ようとは、一体誰が想像できたでしょうか。ほかでもない私自身が一番驚いています。

     去年の4月にナザレン神学校に入学して、1年と7ヶ月が過ぎました。1年生の入学当初は、仕事をやめて予備知識が何も無い状態で神学の世界に飛び込んだものですから、初めてのことに右往左往してよく泣いてました。ギリシア語がわからない…教会史のテストの暗記が追いつかない…そもそも神学って何なのかということ自体も、よくわかっていなかったと思います。

     2年目の今も、神学とはなんぞや、がわかったわけではないのですが、時間をかけて少しずつ、すこしずつ自分のなかに浸透してきたような気がしています。これも、教会をあげて支えてくださっているみなさんと、親身にご指導してくださる先生がたのおかげでございます。

     そんな親切にご指導してくださる先生が今目の前に座っているわけですけれども。石田学先生は現在、ナザレン神学校で2年生の説教学と宣教学と教理史をご担当されています。
    そしてなんと私の旧約聖書神学の先生はこちらに座っているわけですけれども。あっちにもこちにも先生がいてとても…ドキドキしちゃいますね。

     でも嬉しいことに、今日は普段小山教会に来られない方々も礼拝に参加してくださっています。
    娘のお友達のパパとママが、なんとわたしの小山教会の初説教を応援するために来てくださいました。そして昨日からの英語通訳合宿で宿泊してくれたNYIの仲間たちがそちらに座っています。そして何より、いつも礼拝を共にしている小山教会のみなさまが今日まで祈りに覚えて、ここにいてくださいます。なんと心強いことでしょうか。

     もしよろしければ、今みなさんで周りを見回して、お互いに拍手を持って歓迎してくださいますか?今日ここに集ったみなさまと礼拝を守れる幸いを感謝しつつ、神さまから語られる御言葉に期待して、メッセージを取り次いでまいりたいと思います。

     さて、今日はアドベントの一週間前いうことで、どこから聖書箇所を選ぼうかと悩んだのですけれども、色々考えて結局「コロサイの信徒への手紙」からみことばを取り次ぐこととなりました。
    タイトルに「手紙」とあるように、ここに書いてある文章は、パウロからコロサイの信徒たちに宛てられた手紙です。

     当時のコロサイの都市は、今でいうトルコに位置する場所にありました。国際都市として開けた、活気のある街です。そこでのキリスト教会は、まだ誕生して間もない、赤ちゃんのような共同体でした。
    生まれたてほやほやのコリントのキリスト教会では当時色々な問題が起こっていたようです。そのため、パウロは彼らを励ますために、この手紙を書いたのです。

     彼らは一体どんな問題に直面していたのでしょう。コロサイの信徒たちは当時、異なった文化のただ中に置かれていました。教会の外は、ギリシアから来たヘレニズム文化と、イスラエルの人々が守り続けてきたユダヤの文化と、そのほかにも様々な文化が入り混じっていました。当然、宗教や、神学的な考え方もごちゃまぜになっている社会に置かれた教会だったのです。

     そうすると、知らず知らずのうちに、教会の中にそれらの思想や宗教が入り込もうとしてきます。キリスト教会はどんな身分の人も、どんな地方の出身でも、除け者にしない自由な共同体でしたから当然、その人達のルーツである多様な文化や思想が入り込んできます。そうやって自分たちでも気づかないほど巧妙に、少しずつ、教会のあるべき姿が崩れていたのかもしれません。

     ただキリストひとりを頭とするべきはずの教会が、他の色々なものを頭としている人々によって、少しずつその姿を変えようとしていたのです。教会全体が、間違った方向へと進んでいきそうになっていたのです。そうしてコロサイの人々は、パウロが「闇の力」と表現するほどの抗えない
    罪の中に入り込んでいってしまいました。

     人々が、文化や人種による束縛から自由になったかのように思えて、実は罪の方向へと向かって、しかも抜け出せない。そんなコロサイの人々が抱えていた危機と同じように、今生きている私たちもそんな危機に直面するときがあると思います。

     私たちは毎週、教会に集って礼拝を捧げていますので、当然、教会はキリストをかしらとする共同体であるとすでに知ってるはずです。しかし、知らずしらずのうちに、キリストと同じくらい高い位置に他のものを頭として置いてはいないでしょうか。そのかしらに支配される生活を送ってたことがあるのではないでしょうか。それはパウロに言わせれば、闇の力というほど、強力に、私たちを罪へと引きずり込むものなのです。しかし果たして私たちはそれに気づいているでしょうか?
    私たちは、自分が闇に飲まれている事実や、その結果犯してしまう罪の一つひとつに、ひょっとしたら無頓着な生活を送ってはいないでしょうか。

     実は私は、自分がそこまで悪い人間だとは思っていませんでした。なんというか、法律をおかすような犯罪はしたことがないし、ちゃんと納税してるし、たまにちょっと人間関係がこじれたり、職場で角が立つ文句を言ってしまうことはあるけれども、毎週教会行って罪の悔い改めの祈りをして、ほんでイエスさまが十字架にかかってその罪を身代わりにしてくださった。だから大丈夫。完!
     誠にはずかしい話しですが、私のクリスチャンライフは、まさにこんな感じで、楽観的でした。自分の抱えている罪がどれほどのもなのかに対して、てんで無頓着だったのです。

     しかし、あるときに、その価値観ががらっと変わる体験をしました。

    2016年2月に、長女が産まれたのです。たくさんの人が祝福してくれました。まるで聖書の物語に出てくる東方の博士や、羊飼いたちのように、多くの友人や家族が当時住んでいた東京の教会にたずねてくれて、バウンサーに寝かされている生まれたての長女を見て、顔をほころばせて喜んでくれました。

     そんな長女が産まれてから10ヶ月経ったとき、子どもを持って初めてのクリスマスがやってきたのです。長女はまだハイハイしかできなくて、わたしのそばで一生懸命つかまり立ちの練習をしているころでした。

     毎週日曜日ごとに礼拝でクリスマスの物語を聞きながら、ああ、きっと赤ちゃんのころのイエスさまも、この長女のように村中の人たちに愛されて、可愛がられていたのだろうなーと考えました。イエスさまも私の娘のように、無垢で、可愛くて、守られて当たり前の存在だったのだろうなと思ったのです。

    そこで初めて、唐突に、ある事実に思い当たりました。
    「あれっ?わたしはひょっとして、こんなに可愛くて、ただただ愛しいだけの存在を、自分の罪のせいで十字架にかけてしまったんじゃないのか?」

    「あれっ?ひょっとして、私の罪ってそんなに重くて、途方もないものだったのか?」と

     自分では生きてこのかた、全く、それほどの大きな罪を犯した自覚がなかったのに、そのとき急にイエスさまの十字架が私にぶわっと迫ってきて、まざまざと自分の罪の大きさが示されました。そこで初めて、心から恐ろしく感じて、闇にのまれたように途方にくれてしまいました。

     神さまが人の形をとられて、この地上にやってきたというとは、そんな生々しい話なんです。
    決して、クリスマス物語で語られる出来事だけが、キリストの誕生のリアルではありません。彼はその生涯を通して人として生きてその場におられ、ミルクやおしめのお世話をされながら少しずつ大きくなって、村のこどもたちといっしょに遊んで、ときには両親に反抗して、周りの大人に見守られながらすくすく成長しました。

     そしてやがて独り立ちして弟子たちを選び、街々で奇跡を起こし、人々からの反感を買って、弟子たちに裏切られて、孤独のうちに鞭で打たれて、無実の罪で十字架にかけられました。
    イエスさまの生涯は、実体を伴って産まれたその瞬間からすでに、十字架につながっていたのです。

     私たちはどうしようもないくらい自分の罪に無自覚です。途方もない罪に気づきもしないで、闇の中をさまようしかない、そんな私たちを、神さまはなんとかして自分の元へと引き上げたいと思いました。その愛の行いを見える形にしたのが、地上に生まれたイエスさまなのです。

     このことを、パウロは手紙のなかでこう書き記しています。キリストの十字架の血によって、「平和を打ち立て、地にあるものも、天にあるものも、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」

     イエスさまの生涯は、ただの一人の青年がベツレヘムに生まれて十字架で死んだライフログではありません。ご自身の死によって私達の罪のすべてを担い、その結果私達と神が和解することを叶えてくれました。だから私たちは、喜びの中で生きるものに変えられたのです。

     18節にはこうも書かれていました。「18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」

     イエスの降誕物語は、十字架での死のさらに先まで続いてることを私たちは知っています。
    イエスは墓に葬られた3日後によみがえり、弟子たちの前にあらわれてともに過ごしたあと、世界中に福音を述べ伝えなさいという命令を私達に下し、そして天にのぼられました。

     主イエスのこの地上での生涯は、降誕から、十字架、そして復活、さらにその先の世界中への宣教まで、一本の線で繋がっているのです。なにもイエスさまの生きた時代のことだけではありません。その後に生まれたコロサイの教会で、地中海沿岸のあらゆる地域で、西ヨーロッパで、アメリカ大陸で、アフリカ大陸で、そしてアジアの国々にまで宣教が広がり、今日この瞬間、小山教会の礼拝まで、イエスの生涯をかけた宣教が脈々と受け継がれてきました。

     そうだとしたら、パウロは私たちにも同じように語りかけているはずです。この小山教会の頭はほかでもない、イエスさまであると。
     イエスさまによらなければ、わたしたちの教会の活動はすべて虚しいものとなってしまいます。
    イエスさまを頭としなければ、わたしたちはこのいろんな情報が入り乱れた社会で、他のものを頭とする人生を送ってしまうことでしょう。
     イエスさまがクリスマスにお生まれになり、人として生きることによって、私たちと同じように笑い怒り悲しんでくださいました。そんな方が教会のかしらとして私たちを力強く導き、進むべき道を明るく照らしてくれるとしたら、それは何と心強く、喜ばしいことでしょうか。

     来週から教会の暦ではアドベントを迎えます。少しずつキャンドルに増えていく灯りを眺めながら、きっと私たちは主イエスのお生まれになった理由をしみじみと噛み締める日々を送るのではないでしょうか。
     ある人は、救いの喜びを思い起こすでしょう。あるかたは、死ぬために生まれてくるイエスさまを思い、ひょっとしたら自分の罪深さに向き合うのかもしれません。
     しかし、この季節にこそ、私たちは十字架で死なれたイエスさまの姿を思い起こし、そのために与えられる希望を握っていきましょう。

     さあ、私たちは喜びにあふれてアドベントを迎えましょう。キリストの誕生を待ち望むこの季節に、キリストをかしらに据えてた共同体を用いて、神様から受け取った愛をますます広げてゆきましょう。
     キリストの平和がみなさんと共に豊かにありますように。

週報より

  • 2025.11.23 週報より抜粋・要約

  • ① きょうの礼拝は、稲葉奈々神学生が説教を担当します。
    私たちの教会が所属する日本ナザレン教団の牧師養成機関である、
    日本ナザレン神学校の2年生の稲葉奈々さんがきょうの礼拝の説教者です。
    いつも支える会を通して、稲葉奈々さんの神学校での学びを
    お支えくださり、ありがとうございます。
    在学中の神学生たちの学びや神学校スタッフのためにもお祈りお願いします。

    ② きょうは礼拝後にランチの会、大掃除、クリスマスの飾り付けを予定しています。
    ランチの会のメニューはシチューです。費用は無料です。(ランチ献金あり)
    飾り付けや清掃の時間まで残れない方もぜひご一緒ください。
    ランチの会の後に大掃除とクリスマスの片付けを行います。
    ご協力よろしくお願いいたします。

    ③ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    11月1日(土)より礼拝堂と付属館の外壁塗装工事が始まりました。
    今回の外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ22万円です。

    ④ クリスマス音楽会のお知らせ
    有志の方による企画で、12月7日(日)の午後1時30分より、
    小山教会でクリスマス音楽会を予定しています。

    ⑤ 教会のクリスマスカードが届きました。ご遠慮なくお持ち帰りください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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