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朗読箇所

公現後第4主日

イザヤ書 56:1–8

◆異邦人の救い
1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
2 いかに幸いなことか、このように行う人
それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人
悪事に手をつけないように自戒する人は。
3 主のもとに集って来た異邦人は言うな
主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな
見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
4 なぜなら、主はこう言われる
宦官が、わたしの安息日を常に守り
わたしの望むことを選び
わたしの契約を固く守るなら
5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
息子、娘を持つにまさる記念の名を
わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。
6 また、主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに
連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
8 追い散らされたイスラエルを集める方
主なる神は言われる
既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。


マルコによる福音書 11:15–19

◆神殿から商人を追い出す
15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

説教

イエスとともに作り変える

  • 説教者  稲葉奈々神学生

     

    今日はマルコの福音書に出てくるイエスさまの物語から、
    とても印象的なシーンを取り扱うことになりました。
    イエスさまとその弟子たちがエルサレムへ入場した次の日の出来事です。
    神殿の境内に入った途端、イエスさまが突然、ある行動に出ました。
    境内の中で捧げ物の動物を売り買いしていた人々を追い出しはじめ、
    両替人の台や、腰掛けをひっくり返しはじめたのです。
    そしてこう言いました。

    「『私の家は、すべての民の 祈りの家と呼ばれる。』
    ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった。」

    一般に「宮きよめ」と呼ばれているこのエピソードですが、
    宗教画だったり、聖書物語の挿絵を見ると、
    このシーンは、イエスさまが神殿の中をみた瞬間、
    もう我をわすれて、カンカンに怒って、
    神殿の境内のなかで暴る姿で描かれます。
    みなさまの中にも、このエピソードといえば
    「怒(いか)れるイエス」のようなイメージが定着しているかもしれません。
    実はこの「宮きよめ」のエピソードは、
    今日開いたマルコ福音書以外の
    他の3つの福音書の中にも、収録されてる物語です。
    特に、ヨハネ福音書を見てみると、
    イエスさまは鞭を使って羊や牛を追い出して、
    両替人のお金を撒き散らして、その台を倒して、
    とかなり詳細まで書いてありますから、
    まあきっと怒ってカーっとなってやったんだろうな、と、
    このときのイエスさまの心情を想像していました。
    しかし私は今回、この箇所から御言葉を取り次ぐにあたって、
    改めてしっかりよく読んでみました。
    すると、本当にわたしがいかに普段
    聖書を適当に読んでいるかをお伝えすることになり
    恥じ入るばかりなのですが、
    今日開いた11章の一つ前の10章11節のところで、
    イエスさまと弟子たちがエルサレムに入場したその日、
    つまり宮きよめの前日に一回、神殿の境内に入って、
    もうすでに中の様子を見て回ってたんです。
    これからエルサレムで活動を始めるにあたって、
    その活動の中心地になるであろう神殿が
    どんな様子なのかまず現地調査しておこう、
    という感じだったのでしょうか。
    とにかく、わたしは読みながら
    その時の様子を想像して、そして気づきました。
    イエスさまは神殿の中の状況を見たその瞬間に
    カーっとなって暴れたわけではなかったのだと。
    イエスさまはまず一回現場を見て、
    エルサレムの神殿の状況をすでに把握していたのです。
    その一回目の時にイエスさまが
    どう感じたかというのは聖書に書かれていませんが、
    ひとまずイエスさまと弟子たちは
    一度宿泊先のベタニヤに戻りました。
    そこで一晩休みながら静かに思いを巡らせたのでしょう。
    翌日にもう一度同じ場所へ戻り、
    そして神殿で宮清めを行いました。
    つまり、少なくとも、マルコの著者によると、
    イエスさまは我を忘れて感情的に振る舞ったわけではなく、
    とても理性的に、冷静な判断のもとで
    必要に応じて宮きよめを行ったことがわかります。
    イエスさまは15節で、売り買いしていた人々を追い出し、
    両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。
    これらはひょっとすると、
    そこまで暴力的な描写ではなく、
    人々を淡々と諭して外へと誘導した
    という表現かもしれません。
    またイエスさまは元石工の職人さんですから、
    当時の現場あがりの振る舞いで
    足で椅子をどかした程度のことだったかもしれません。
    あるいは、怒れるイエスさまの印象を
    そのまま受け取るとすれば、
    ここまで怒りを露わにするほど、
    今の神殿はひどい状況なんだ、と人々に伝わるように、
    あえて人間的な感情表現を利用して、
    怒っているように振る舞ったのかもしれません。
    いずれにせよ、大事なのは
    イエスさまの表面的な行い云々ではなく、
    彼がこの行動を通して何を伝えようとしていたのかだと思います。
    イエスさまの非難の矛先はきっと、
    その当時の神殿のシステムに向けられていたのでしょう。
    当時のエルサレム神殿では、
    神殿に捧げる献金の貨幣を、
    ティルスで造られてた
    ツロ貨幣という独自の銀貨に限定していました。
    このエピソードに出てくる「両替人」とうのは、
    参拝しにきた人々が自分たちの使っている貨幣を
    そのままでは捧げられないために、
    手数料を取って神殿専用のツロ貨幣に交換する役割を担った人たちです。
    交換の際には手数料がかかり、8%ほどの利益が上乗せされていたそうです。
    また、その交換したツロ貨幣を用いて、
    その場で動物を購入して捧げる必要がありました。
    動物の種類は、鳩や羊などいくつか種類されており、
    ある程度、経済状況に合わせて
    購入するシステムにはなっていたようですが、
    自分たちの所有している家畜を持ち込むことは
    許されていませんでした。
    これらのエルサレム神殿のシステムは、
    自分たちの利益が確実に手元に残るように設定されており、
    捧げ物をするために神殿へやってくる人々は
    それに合わせるのが当然と言わんばかりの制度だったのです。
    だからイエスは、そんな神殿の現状を
    見かねてこう言ったのです。

    『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』

    この、「すべての民」という部分に、
    イエスの訴えが込められているのではないでしょうか。
    すべての国々、すべての人々が共に集い、
    喜んで捧げるために立てられた主の宮を、
    あなたがたは自分の利益を得るための道具にしてはいないか。
    それは、すべての人々に伝えられたはずのよき報せを、
    自分たちのものに留める行いではないのか。
    ほんとうに、それが神の前に正しい姿なのか?と、
    イエスさまは彼らにまっすぐに問いかけました。
    両替人が台を広げ、捧げ物の動物たちが
    ひしめく神殿の日常風景に、
    イエスさまは突然介入して、打ちこわしたのです。
    その場にいた人々はきっと、とても驚いたことでしょう。
    だって、彼らにとっての神殿のシステムは
    ごく当たり前の日常のすぎなかったからです。
    権力を持っている祭司長や律法学者たちが
    それを守るようにと言っているのですから、
    自分たちがそれを守るのは仕方ない、
    当然のことだ、と思っていたことでしょう。
    しかし実は、その当然の意識のなかに、
    すでに出来上がった権力構造が潜んでおり、
    自分たちも気づかぬ間に加担してしまっている、
    そんな世界のあり方が存在していたのです。
    イエスさまは、そんな世界に突然飛び込んで来て、
    固くつくりあげられた価値観を、文字通り打ちこわしてゆきました。
    だから人々は驚いたと同時に、恐ろしくもあったはずです。
    自分たちにとって当たり前の社会を壊してしまったら、
    それっておかしいんじゃないの?と声をあげてしまったら、
    この社会構造に満足している権力者たちから
    反感を買うに決まっているのです。
    現に、イエスさまの宮きよめの場面に居合わせた
    祭司長と律法学者たちは、
    どうやってこのイエスを殺そうかと
    即座に相談し始めたのですから。
    祭司長たちはその場で、
    イエスさまに注意することだってできたはずです。
    あるいはその場から追い出すとか、
    対話を試みるとか。
    しかし聖書にはそのようなことは書いてありません。
    祭司長たちは即座に、
    イエスを殺すための計画の相談を始めました。
    当時の価値観で、イエスさまは
    それほどの反逆的な振る舞いをしたということです。
    にもかかわらず、18節の後半にはこう書いてありました。

    「群衆が皆その教えに心を打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。」

    驚いたことに、群衆、
    つまりその場にいた一般市民は、
    イエスさまの言葉を素直に受け止めました。
    ひょっとすると、イエスさまは
    エルサレムに入場するまでの街々で、
    いろんな奇跡を起こして回っていたので、
    彼の評判が、すでにエルサレムの一般市民にまで
    届いていたのかもしれません。
    噂に聞く、あのイエスという人の言うことなのだから、
    と耳を傾けたのかもしれませんし、
    イエスさまが行った突然の宮清めに、
    頭を打たれるような衝撃が走ったのかもしれません。

    イエスさまが彼らに言った、
    『私の家は、すべての民の
    祈りの家と呼ばれる。』

    という言葉は、旧約聖書のイザヤ書からの引用です。
    つまり、ユダヤの文化の中で生きる彼らにとっては、
    生活の中に溶け込んだ馴染み深い言葉でした。
    イエスさまはこのとき、突飛なことを言ったわけではなく、
    むしろ彼らの文化によく溶け込んだ
    馴染み深い言葉を使って指摘されたので、
    群衆は即座に自分の行いを省みることができたのでしょう。
    そんな群衆の姿と比べて、
    権力者たちはどうだったでしょうか。
    祭司長といえば、神殿の奉仕を
    お役目を担った専門職の人たちです。
    律法学者はユダヤの律法を解釈して
    人々を指導する立場の人たちです。
    ですから、彼らがイエスさまの言葉を聞いたとき、
    これは自分たちのよく知るイザヤ書から
    引用した言葉だとすぐにわかったはずでしょう。
    しかし、群衆よりも神に近い立場であるはずの祭司長や律法学者たちが、
    群衆たちとは対照的にイエスさまの言葉を退けました。
    それどころか、群衆とは真逆の姿勢で、
    即座にどのようにして彼を排除するべきか、
    と企てはじめたのです。
    神様は主の宮が
    このような姿であるべきとは思いませんでした。
    だからこそ、イエスさまを用いて
    人々を正しい方向へと導びこうとしたのです。
    主の宮ではどんな立場も、どんな民族も関係なく、
    全ての人が神の愛を味わい、心から祈って、
    喜んで捧げる場所であるべきはずです。
    そんな神の家のあるべき姿を思い出してほしい、と、
    神様はイエスさまを通して呼びかけたのではないでしょうか。
    さて、私たちの生きる社会を見渡してみると、
    同じような現実が横たわっているかもしれません。
    社会の中心になっているのは権力者たちです。
    そして、彼らの都合の良いように社会はデザインされています。
    弱い立場の人々や、善を行おうとする人々の声はかき消されていきます。
    そうやって構築される「当たり前」の世界に私たちは生きているのです。
    そんな現実に対して私たちは、
    声をあげようとすればするほど、
    無力感に苛まれる現実に打ちのめされます。
    だから気づかないふりをすれば楽なのです。
    まあ世の中そんなもんだよね、
    仕方ないよね、と言ってしまうことができるのです。
    しかし、今日開いた聖書の言葉は、
    そんな私たちのためにイエスさまは
    いまも働き続けているのだと語りかけています。
    世の中に溢れている理不尽に対して
    あまりに無関心な私たちを、
    イエスさまは今も窘め、
    私たちの心のうちに、イエスさまは
    宮清めを起こし続けているのです。
    その宮清めは、私たちの当たり前の価値観を
    打ち壊す衝撃を伴います。
    イエスさまの必死の呼びかけを
    私たちはどんな態度で受け取るでしょうか。
    神の言葉をよく知りながら
    頑なに拒んだ祭司や律法学者のように、
    イエスさまの言葉に耳を塞ぐでしょうか。
    それとも、たった一言で受け入れた群衆たちのように、
    イエスさまの言葉に聞き従うでしょうか。
    忘れてはいけないのは、
    イエスさまはただ破壊行為を行ったのではないということです。
    イエスさまは宮清めを通して、
    神殿だけでなく、主の宮に集う私たちの内側を
    新しく作り変えようとしたということです。
    イエスさまの時代にエルサレムに立っていた神殿は今、
    教会に姿を変えて世界中に広がっています。
    わたしたちの教会もまた、
    イエスさまが清め続ける宮として
    この世に遣わされているのです。
    そこに集う私たちも同じです。
    この世界に生きる私たちの生活に入り込んだ権力構造や、
    そんなものだよね、と知らず知らずに
    受け入れてしまっている理不尽を、
    イエスさまは決して諦めず、
    今も必死に、作り変えようとしています。
    それならば、この世界で生きる私たちもまた、
    イエスさまのあとに続くべきではないでしょうか。
    イエスさまの宮清めを通して、
    私たちの内面も作り変えられていくのです。
    当たり前だと思い込んでいる
    この世の理不尽への目が開かれて、
    落胆を伴う現実へと声をあげることが
    できるようになっていきます。
    きっと神さまが望んでいるのは、
    私たちがこの世界に倣った価値観を捨て、
    キリスト者として主にならう生き方を選んでいくことだと思います。
    それは神様の愛を握った生き方です。
    社会の隅に追いやられて苦しむ人々を放っておかず、
    共に労苦を担い、平和によって結ばれる世界を作っていく。
    そんな生き方へと導かれているのではないでしょうか。
    この社会の現状に対してしっかりと目を見張り、
    疑問を持ち、時には抵抗して、行動していく。
    それは勇気が必要なことです。恐れや戸惑いや、
    時には衝突が起こってしまうでしょう。
    しかしどんなときにも、
    私たちは今日開いた御言葉に立ち返りましょう。
    イエスさまの宮きよめの姿を思い起こすとき、
    主に従ってまっすぐに行動したイエスさまの姿が、
    私たちをいつも励ましてくださるはずですから。

週報より

  • 2026.02.01 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後に、讃美歌を歌う会を行います。
    讃美歌のリクエストがある方は、奏楽者までお知らせください。
    また、月例教会役員会は、讃美歌を歌う会の後に行います。
    役員会への提案がある方は、牧師または教会役員までお知らせください。

    ② 教会名簿の更新時期となりました。
    名簿に掲載する情報に変更がありましたら、
    2月8日(日)までに牧師にお知らせください。

    ③ 【公告】 年次教会総会のお知らせ
    2月15日 (日)の礼拝後に、年次教会総会を開催します。
    教会員の皆さまはご出席ください。
    やむを得ず欠席をされる方は、委任状のご提出をお願いします。
    委任状の書式はとくにありません。
    委任状は、LINEでのメッセージやメールでも提出可能です。

    ④ 外壁塗装のための献金へご協力お願いします。
    外壁塗装のための献金にご協力いただける方は、
    受付正面の壁にかけてある献金袋や予約献金の申込用紙をご利用ください。
    外壁塗装の献金は目標金額(145万円)まで残りおよそ8万円です。

    ⑤ あすは神学校教授会、卒論発表会、牧師研修会が教団本部で予定されています。
    基嗣牧師がそれぞれ出席します。今回はZOOMでの出席の予定です。

    ⑥ 教職感謝月間献金(2月の月間献金)にご協力ください。
    小さな教会で牧師給与が充分でない牧師たちのための補助に用いられます。
    献金袋が受付テーブルにありますので、ご利用ください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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