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朗読箇所

復活節2主日

旧約 創世記 1:6–19


6 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
7 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。
8 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
9 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
10 神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。
11 神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。
12 地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
13 夕べがあり、朝があった。第三の日である。
14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。


新約 ローマの信徒への手紙 8:18–30

◆将来の栄光
18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
23 被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ
められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
30 神はあらかじめ
められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

説教

夕があり、朝がある

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    創世記が描く世界は、
    現代に生きる私たちにとって、
    とても異質なものです。
    私たちは、多少なりとも
    科学的な知識を持って
    この世界を見つめるため、
    創世記を読むたびに、
    ここで描かれていることが
    とても非現実的なものに思えてきます。
    太陽と月が造られる以前から、
    世界に夜が訪れ、
    そして朝がやってきます。
    私たちの常識から考えれば、
    それはありえないことです。
    水の中に大空があるって、
    どういう状態なのでしょうか?
    「大空」と訳されている言葉は、
    天を覆うドームを意味するものなのですが、
    それが分かったとしても、
    天を覆うドームって、
    一体何を意味しているのでしょうか?
    オゾン層のことなのでしょうか?
    天を覆うドームの上に水がある
    という描写も謎めいています。
    天を覆うドームに
    太陽や月や星が
    置かれているという描写は、
    私たちの天体に関する理解とは、
    かなり異なります。
    そして、そもそも6日間で
    この世界やこの宇宙が
    本当に出来上がるものなのでしょうか?
    私なりに、現代人が創世記1章を読む上で
    感じる疑問や違和感を並べてみましたが、
    聖書の一番最初のページに記されている
    この天地創造の物語は、
    正直、疑問が絶えない箇所だと言えます。
    現代に生きる私たちの目から見たら、
    なんだかそれは偽りの宣言のようにさえ、
    思えてきてしまうかもしれません。
    それなのに、創世記はなぜ
    このような始まり方をするのでしょうか?


    この疑問に答える上で、
    この世界がどのように成り立ったのかという、
    科学的な知識を紹介することが
    創世記の目的ではないことに、
    私たちは目を向ける必要があります。
    むしろ必要なのは、
    私たちが生きるこの世界を
    古代イスラエルの人々が
    どのように見つめたのか、です。
    創世記1章は、古代イスラエルの人々が
    バビロニア帝国という
    当時、とても繁栄していたメソポタミアの帝国へ
    強制的に連れて来られた時、
    彼らがバビロニアの文化に触れたことに
    大きな影響を受けています。
    バビロニアで人気の物語の一つに、
    バビロニアの天地創造の物語がありました。
    この世界ができるその前に起こったと、
    古代の人々が考えた神々の戦いや
    世界創造の経緯などが、
    バビロニアの創造物語の中で
    描かれています。
    私はバビロニアの創造物語を
    初めて読んだ時、そこで描かれている
    世界の成り立ちの描写にとても驚きました。
    だって、バビロニアの創造物語は、
    神々の戦いに敗れて死んだ、
    神のなきがらを用いて、
    この世界が造られた、というのですから。
    それは、なんと言うか、
    とても血みどろで、
    おどろおどろしい世界です。
    それは、見方を変えるならば、
    誰かの犠牲によって成り立っている世界
    という理解を示している
    とも言えるかもしれません。


    古代イスラエルの人たちが、
    バビロニアへ連れて行かれた時、
    彼らはこのようなバビロニアの創造物語を
    耳にしたことでしょう。
    神々の戦いで敗北し、
    悪であると見なされた
    神のなきがらによってこの世界は造られた。
    このように伝える物語を耳にした時、
    古代イスラエルの人たちは
    一体どのようなことを感じたでしょうか。
    この世界を造った神を信じる彼らは、
    それが、この世界の成り立ちとは
    考えませんでした。
    ですから、バビロニアで広まる
    世界創造の物語に
    彼らは決して同意することなど
    できませんでした。
    「そんなはずない。
    悪と見なされた神の、
    そのなきがらで包まれている
    問題だらけの世界として、
    この世界が本来造られたわけ、ないじゃないか。
    この世界は、神が祝福のうちに創造した、
    とても良い、美しい世界ではないか?」
    創世記の創造物語から、
    古代イスラエルの人たちの、
    そのような声が聞こえてきます。


    その意味で、
    創世記1章で描かれていることは、
    当時バビロニアで知られていた
    創造物語との文化的・信仰的な対話の跡です。
    「私たちの信じる神は、この世界を
    祝福し、良いものとして創造されたんだ。」
    そういった信仰の表明を
    創世記はその初めに置いているのです。
    そういった、信仰の表明として
    この物語を読み直すならば、
    現代人のもつ科学的な視点で読んだ時に、
    わけがわからなかったこの物語が
    少しばかり意味の通るものになってきます。


    神がこの世界に、
    「光あれ」と語りかけたのは、
    1日目のことでした。
    太陽や月や星が造られるのは、
    その3日後のことです。
    古代イスラエルの人々が
    生きなければならなかった世界は、
    バビロニア帝国の社会です。
    そこでは、太陽も、月も、星も、
    神として認識されていました。
    当時、古代イスラエルの人たちが
    生きなければならなかった社会の中で、
    神として認識されていたあらゆるものを、
    創世記1章は、神によって造られたもの
    と位置付けています。
    太陽も月も、神によって造られた、
    天の大空で光るものである、
    と呼ばれています。
    太陽や月が造られるその前から、
    この世界は光で照らされていて、
    昼も夜も存在します。
    太陽や月が、絶対的な光を放ち、
    昼と夜をそれぞれ支配する、
    そのような世界ではない。
    私たちの生きるこの世界を作った神こそが、
    私たちの世界を、私たちの人生を光で照らし、
    昼も夜も、この世界の全てを支配されている。
    太陽や月は、単に昼と夜のしるしとして、
    天で光っているものにすぎない。
    このようにして、バビロニアの創造物語や、
    バビロニア社会の価値観が
    当たり前の世界において、
    神によってこの世界は
    良いものとして造られ、祝福されている、
    という信仰の表明を
    創世記1章は行っているのです。


    けれども、この物語は、
    バビロニアの文化に対抗する形で、
    古代イスラエルの人たちが
    自分たちの信仰を表明する
    ということが第一の目的ではありません。
    むしろ、故郷から
    強制的に引き離された人たちや、
    故郷の町や神殿が破壊され、
    蹂躙されてしまった人たち、
    そして、友人や家族を奪われ、
    失望の中にいる人たちに、
    希望を与えるための物語でした。
    私たちは悲しみや苦しみの中にある時、
    時間が止まってしまったかのような
    感覚を覚えます。
    確かに、時間は進んでいます。
    けれども、進んでいく時間から、
    自分は取り残されている。
    悲しみや苦しみに心が支配される時、
    自分の力では抵抗できない出来事と出会う時、
    私たちはそのような感覚に陥ります。
    古代イスラエルの人たちは、
    故郷を徹底的に破壊され、
    自分たちにとって大切な神殿も、
    王さまも、自分たちの土地も奪われました。
    神に見捨てられたとさえ感じました。
    そのような現実に襲われ、
    バビロニアへ強制的に
    連れて来られた彼らは、
    大きな傷を心に負って、
    バビロニアでの新たな生活を
    始めたことでしょう。
    何度、バビロニアの軍隊が押し寄せてきて、
    友人や家族に暴力を振るい、
    無慈悲に命を奪っていった
    あの光景を思い出したことでしょうか。
    彼らの亡骸のそばを歩いて、
    強制的にバビロニアへと連れて行かれた
    その時の経験を
    何度思い出したことでしょうか。
    何度も何度も
    過去の辛い経験を思い出し、
    時間が一向に進まない。
    良い方向へと物事が進んでおらず、
    ただ現実に打ちのめされて、
    ボロボロになった自分たちの姿だけが
    この目に映りました。
    明るい未来など、思い描くことはできません。
    時間は止まったまま、動き出しません。
    今、自分たちを取り囲んでいる現実は、
    決して変わらないものだと、
    彼らは感じていたことでしょう。


    そんな彼らに向かって、この物語は、
    ゆっくりと、時間が流れ出したことを伝えます。
    「夕があり、朝があった」と、
    何度も繰り返し、
    時間が経過していることを伝えます。
    時間は確かに、ゆっくりと、流れている。
    その時間の流れの中で、
    この世界を創造した神が
    働いてくださっている。
    神は、この世界の混沌の中に働きかけ、
    暗闇に光をもたらし、
    命のないところに、
    命をもたらしてくださっている。
    混沌の水を世界の外へ追いやり、
    陸を作り、植物を生えさせました。
    太陽や月、星々などを天に置きました。
    少しずつ、ゆっくりと、
    時間を進めながら。
    夕があり、朝がある。
    神の時の中で、神の支配の中で、
    夕があり、朝がある。
    神が絶えず働いておられる、
    この神の時の中で、
    神が祝福し、良いと宣言しておられる
    この世界の中で、
    ただ身を置いて、
    神の働きを見つめなさい、と
    創世記の物語はそのはじめに伝えています。
    夕があり、朝がある。
    時間はゆっくりと流れている。
    その瞬間、瞬間を神が祝福し、
    混沌としたこの世界に、
    この世界のあらゆる場所に、
    秩序を、平和をもたらしてくださる。
    たとえまだ完成へと向かう
    その途上であっても、
    神が良いと認め、
    受け止めてくださっている。
    神の時の中で、夕があり、朝がある。
    神の御手の中に、私たちも、そしてこの世界も、
    受け止められ、ゆっくりと時間が進んでいく。
    ボロボロになり、混沌とした世界において、
    時間は止まっているように
    見えるかもしれない。
    けれど、ゆっくりと、確実に時間は進み、
    そこで神が働いてくださっている。
    命の祝福は確かに始まっている。
    決して途切れることなく、
    その時間の流れの中で、一瞬一瞬の中で、
    神の祝福は注がれ続けている。
    そのような喜びと驚きに溢れた宣言から、
    私たちの手元にある聖書は、
    その物語を語り始めています。


    神は、この物語を通して、
    破滅や暴力を経験し、
    打ちひしがれていた
    古代イスラエルの人たちだけでなく、
    現代に生きる私たちに対しても、
    語りかけ、呼びかけています。
    私たちだって、
    取り囲まれている現実を前に、
    無気力になり、悲しみに沈み込み、
    時間が止まっているかのような感覚を覚える、
    そんな状況に置かれることがあります。
    同じような状況が続き、
    一向に、変わることがないように
    思えることがあります。
    自分の力で物事が変わることなんて
    ほとんどできなくて、
    自分の無力さを噛み締めながら、
    何も変わらない、今の置かれている状況に
    耐え続けなければならない。
    時間は止まったままに、思えてしまいます。
    でも、創世記1章の物語は、
    私たちが希望を持てず、無感覚になり、
    良い変化を望めないような場所に、
    神が共にいてくださることを伝えます。
    神は、死と混沌に満ちた
    この世界のあらゆる場所に、
    命への道を開いてくださっています。
    ずっと同じような状況が続くように思える、
    私たちが失望する場所に、
    神は手を伸ばしてくださいます。
    必ず、神の時の中で、
    夕があり、朝があり、
    時が進んでいきます。
    その中で、神が祝福のうちに、
    私たちに関わってくださいます。


    だから、私たちはどのような時も、
    決して失望で終わるとは考えません。
    何よりも、私たちの生涯は、
    天の御国へと向かって歩む旅なのですから、
    夕があり、朝がある、その先に訪れるものは、
    神のもとにある安息です。
    神のもとで安らぎを得る、
    天の御国に私たちがたどり着く、
    その日に向かって、時は流れていきます。
    何も変わらないように見えても、
    それでも、すべてのことのうちに神が働き、
    神の時の流れの中で、
    私たちの地上での旅は、
    天の御国へと向かっていきます。
    そんな希望と慰めに満ちた時の流れの中で、
    私たちは今、生かされています。
    どうか、主キリストにあって、この希望を
    いつも思い起こすことができますように。
    たとえ、何も変わらないように思えたとしても。
    たとえ、時間が止まっているように
    思えたとしても。
    神が手を伸ばしてくださっている。
    神の子であるイエスさまが
    私たちのもとに訪れ、
    イエスさまを通して神が愛と憐れみを
    示し続けてくださったのですから。
    夕があり、朝がある。
    私たちはいつも、どのような時も、
    どのような状況に立たされていても、
    神の御手は私たちのもとに伸ばされていて、
    私たちは神の時の流れの中で
    生かされています。

週報より

  • 2025.04.27 週報より抜粋・要約

  • ① 礼拝後、月報『モレノ』編集会をおこないます。
    モレノ・チームのみなさま、よろしくお願いいたします。
    教会月報の紙面に掲載させていただく原稿・絵・写真などを募集しています。
    寄稿してくださる方は、モレノ編集チームまたは牧師までお知らせください。

    ② イースター献金にご協力ください。
    世界宣教とキリスト教団体への募金、教会の働きに用います。
    受付テーブルに献金袋がありますので、ご利用ください。

    ③ 次の日曜日は、礼拝後に賛美歌を歌う会を予定しています。

    ④ 教会あら探し会(仮)のお知らせ
    教会の不用品や修理箇所、整理したい場所などを「あら探し」し、
    教会に置いてあったら良いものなどを提案し合う会を
    5月18日(日)の礼拝後に開催します。

    ⑤ ハイキングのお知らせ
    5月24日(土)にハイキングを予定しています(小雨決行)。
    今回は井戸湿原へツツジを見に出かけます。
    詳細は決まり次第お知らせしますが、お弁当を持参して教会に集合の予定です。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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