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朗読箇所

三位一体後第5主日

創世記 4:1–16

◆カインとアベル
61 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
9 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
10 主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
11 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる
12 土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
13 カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。
14 今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
15 主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。
16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。


ヨハネの手紙 一 3:11–18

◆互いに愛し合いなさい
11 なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。
12 カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
13 だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。
14 わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
15 兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。
16 イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
17 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。
18 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。

説教

カインが忘れていたこと

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    兄カインが弟のアベルを殺してしまった、
    きょうの創世記の物語は、
    ミステリーのような雰囲気があります。
    もちろん、犯人は誰なのかなと
    考えながら読める
    という意味ではありません。
    すでに、犯人が誰であるのかは
    誰の目にも明らかですから。
    むしろ、アベルを殺した犯人である
    兄のカインがどのような心情を抱き、
    どのような動機を抱いているのかを
    私たち読者が探り、
    考え続ける必要があるという意味で、
    この物語はミステリー的な雰囲気があります。


    なぜカインは自分の弟のアベルの命を
    奪うことになってしまったのでしょうか?
    彼が心に抱いた怒りが
    彼を殺意へと駆り立てたのだと
    想像できますが、
    カイン自身はその理由を一切語りません。
    「どうして怒るのか」(6節)と
    神から問いかけられても、
    カインは答えようとしませんでした。
    そうなると、ここで描かれている
    状況からカインの怒りの理由を
    推測するしかありません。


    私たちと同じように、
    新約聖書の時代の人たちも、
    この問題について考えました。
    新約聖書が示す見解はふたつです。
    ひとつは、そもそも
    カインが悪であったから。
    そして、もうひとつは、
    カインの捧げたものが
    良いものではなかったから。
    ただ、創世記の物語を
    注意深く読んでみると、
    カインが怒りを覚える原因となった出来事は、
    カインにとっても、アベルにとっても、
    中立的に記されていることに気づきます。
    カインの捧げた供え物の質が悪かったとも、
    供え物を捧げるカインの心に
    問題があったとも、
    創世記からは読み取ることができません。
    そうであるならば、なぜ神は、
    両方の供え物に
    目を留めなかったのでしょうか。
    アベルの方を選び、
    カインの方を選ばなかった神の
    えこひいきが原因で、
    カインの怒りが引き起こされたようにさえ
    思えてきてしまいます。
    神の気まぐれが原因となって、
    カインは怒りを覚え、
    最終的にアベルを
    殺すことになってしまったのでしょうか。
    もしもそうであったのならば、
    悲しすぎます。


    けれども、一度立ち止まって考えてみると、
    カインとアベルが捧げた供え物が
    神の目に留まったことを
    カインとアベルのふたりが
    どのように知ったのかについては、
    具体的には記されていない
    ことに気づきます。
    彼らは、どのようにして、
    神が自分たちの供え物を受け止めたのかを
    知ることになったのでしょうか。
    神から直接語りかけられたのでしょうか。
    それとも、カインが育てた作物が不作で、
    アベルが育てる羊たちが更に増えたから、
    各々が神に向かって捧げた供え物を
    神がどのように受け止めたのかが
    わかったのでしょうか。
    もしも神からの直接の語りかけではなく、
    供え物を捧げた後に、
    作物や羊が増えたり、
    減ったりしたことによって、
    彼らが判断をしていたのならば、
    カインの怒りの原因は、
    神の気まぐれにある
    などとは言えません。
    というのも、カインとアベルの物語の
    直前の物語である、
    創世記3章のエデンの園の物語において、
    カインとアベルの両親が
    エデンの園を追放される前に、
    大地は呪われてしまいました。
    それは、アダムとエバが
    神との約束を破り、
    食べてはいけない実を食べたことによって、
    もたらされた悲しい出来事でした。
    そして、大地が呪われたということは、
    土を耕す者であったと
    紹介されているカインにとっては、
    自分の働きの成果に直結することです。
    ですから、羊を飼う者であったアベルに比べて、
    大地を耕す者であったカインの方が、
    仕事の成果が得にくいことは、
    何も不思議なことではなかったと思います。
    けれども、カインはその事実を受け止め切れず、
    自分の捧げた供え物が
    神に受け入れてもらえなかったのだと、
    憤り、怒り、落胆し、顔を伏せました。


    そんなカインを見て、
    神は彼に寄り添い、「どうして怒るのか。
    どうして顔を伏せているのか」(6節)
    と語りかけます。
    けれども、ここからカインは沈黙します。
    神に何も答えようとしません。
    なぜ自分の捧げた供え物は
    神に受け入れられなかったのか、
    カインは神に訴えて、
    神に尋ねることさえしません。
    私たちが信じる神は、
    私たちとの間に交わりを求める神です。
    だから、神が語りかけてくるということは、
    カインがその語りかけられた言葉に、
    何らかの返答をすることを
    神が願ってのことでした。
    それは、怒りや不満の声でも
    良かったと思います。
    「なぜ自分の供え物は
    受け入れられなかったのか」と、
    率直に尋ねる声が
    カインから聞きたかったことでしょう。
    けれども、カインはここで沈黙します。
    そして、カインが声を発し、
    怒りをぶつける相手は、
    神ではありませんでした。
    カインは弟のアベルに声をかけ、
    弟を野へと連れ出します。
    そして、気づけば、
    弟のアベルの命は
    兄カインに奪われ、
    アベルは野に倒れています。
    カインが心に抱いた怒りや憤りは、
    神に向けられず、弟のアベルへと向かい、
    アベルの命が失われました。


    カインがアベルの命を奪ったとき、
    神がカインに向かって問いかけた
    言葉はとても印象的です。
    「あなたの弟アベルは、
    どこにいるのか」(9節)。
    神との約束を破り、神の前から隠れた
    アダムとエバに向かって、
    「どこにいるのか」と語りかけたように、
    神はカインに語りかけました。
    アダムとエバの場合、
    神が探したのは、
    神との約束を破り、過ちを犯して、
    隠れている彼ら自身でした。
    けれども、この物語においてはどうでしょうか。
    神は、命を失ったアベルを探しています。
    「あなたの弟はどこにいるのか」
    と問いかけることによって、
    カインの犯してしまった過ちの
    その深刻さを彼に伝えようとしています。


    「知りません。
    私は弟の番人でしょうか。」(9節)
    カインは、神の言葉にこう答えています。
    ここでカインが使っている
    「番人」という言葉は、
    「守る者」という意味の単語です。
    創世記において、人間が造られた時、
    神が人間に与えた使命は、
    この世界を耕し、守ることでした。
    大地を耕す者として
    紹介されているカインは、
    まさにその使命を
    引き継いでいる存在です。
    そんな彼が、神に向かって、
    皮肉交じりにこう言っているのです。
    「私は弟を守る者でしょうか?
    いいえ、違いますよ。
    私はこの地を耕し、守るようにと、
    あなたから使命を与えられているんです。
    ほら、こないだも、収穫した食べ物を
    あなたに捧げたではありませんか。」


    そう、カインは忘れてしまっていました。
    この世界を耕し、守るようにという、
    神から与えられた使命が、
    単に与えられた仕事をする
    ということではないということを。
    神によって造られた
    美しく、良いこの世界を
    維持し、管理し、更に良くしようとする。
    創世記の物語によれば、
    それが私たち人間に
    与えられている役割です。
    神によって造られた良い世界には、
    私たち人間自身も含まれています。
    ですから、私たちがお互いを大切にし、
    お互いを守ることも、
    当然、神からの使命に
    含まれていることです。
    カインは現状の不満や怒りを
    神にではなく、アベルにぶつけ、
    アベルを守るどころか、
    彼の命を奪ってしまいました。
    カインの物語は、私たち人間が、
    とても身近なところから、
    この世界を、共に生きる人たちを
    守るどころか、傷つけ、
    命を蔑ろにしてしまうという、
    悲しい現実を突きつけます。
    何よりも、創世記の物語は、
    神が造られた、この美しく、良い世界が、
    人間の罪や過ちによって、
    徐々に傷ついていく様子を描いています。
    そう、カインのように、
    共に生きる人の命を蔑ろにしたところから、
    この世界の傷は深まっていくのです。


    ところで、この物語において、
    カインがアベルを殺した動機は
    謎に包まれたままです。
    きっと、カインの物語を
    人類に共通するような、
    象徴的な物語として伝えるために、
    殺害の動機や怒りの理由などは、
    明らかにされていないのでしょう。
    現状の不満や怒りを神に向けず、
    近しい人たちに振りまいてしまうのは、
    何も、カインだけではありません。
    私たちだって、同じです。
    様々な動機から、
    多くの場合、自分のために、
    誰かの声を聞こえないものにしてしまうのは、
    カインだけではありません。
    私たちだって、同じです。
    自分よりも小さな声を無視したり、
    この社会にあるはずの悲しみや苦しみを
    見えないものや
    聞こえないものにしてしまったり、
    押しつぶしてしまうことは、
    私たちの生きる社会で
    何度も繰り返されています。
    そう、私たちも、自分たちが
    この世界を耕し、守る者であることを
    忘れてしまうのです。


    だからこそ、神は私たちのもとに、
    イエスさまを送ってくださいました。
    きょうは新約聖書から
    ヨハネの第一の手紙を
    一緒に読みました。
    ヨハネは、カインとイエスさまの姿を
    比べています。
    カインは命を奪う道を歩みましたが、
    イエスさまは自らが傷つきながらも、
    出会う様々な人たちを愛し、憐れみ、
    人々の命を生かす道を
    選び続けた方でした。
    イエスさまのように
    自分を犠牲にすることには、
    もちろん限界があります。
    けれども、イエスさまのこの姿は、
    私たちの心にこの世界を耕し、
    守る生き方を呼び起こします。
    共に生きる人たちの命をすり減らし、
    声を押しつぶすのではなく、
    命を尊び、存在を喜び、生かし、
    時にはその声を代弁する。
    カインが選んだ道とは、
    違う道を私たちは歩めると、
    イエスさまはいつも私たちに
    示し続けておられます。
    どうか、イエスさまが示してくださる、
    そんな道を私たちに示された道として、
    歩んでいくことができますように。
    そして何よりも、私たちが日々、出会い、
    共に生きる人たちとの間に、
    イエスさまがいつも立って、
    私たちを結び合わせる絆と
    なってくださいますように。

週報より

  • 2025.07.13 週報より抜粋・要約

  • ① きょうは礼拝後、ティータイムのあとに、月例教会役員会をおこないます。
    おもな議題は、こども一日キャンプ(8/23)と教会全体会(8/31)です。
    教会役員のみなさま、よろしくお願いいたします。
    役員会で話し合ってほしいことがある方は、
    牧師または役員までお知らせください。

    ② あすは関東地区牧師会が五井教会で予定されています。
    今回は、基嗣牧師はZOOMでの出席予定です。

    ③ 外壁塗装のための献金へのご協力のお願い
    私たちの教会はおよそ10年ごとに礼拝堂の外壁塗装を行っています。
    礼拝堂を長く使用するために、必要な定期的なメンテナンスです。
    ご協力いただける方は、受付テーブルの上にある献金袋をご使用ください。
    目標金額は140万円です。
    また、外壁のサンプルが届いています。
    受付テーブルに置いておきますので、どうぞご覧ください。
    ご希望の色などありましたら、牧師までお知らせください。

    ・ミャンマー大地震の救援募金に
     ご協力ください(受付テーブルの上にある白い箱)。
     支援金はナザレン教会の国際援助機構を通じて
     ミャンマーへ送金されます。
    ・ナザレン教会を通じて
     ボランティア団体・各被災自治体などへ送金されます。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください(アジア学院に寄付)。
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
     牧師にお知らせください。
    ・小山駅・教会間の送迎(9時45分東口出発)があります。
     詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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